「一首鑑賞」の注意書きです。
208.かんぺきなきゅうたいとなる夢をみていきつめているたんぽぽわたげ
(伊津野重美)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで魚村晋太郎が紹介していました。
たんぽぽの綿毛が完璧な球体だととても嬉しいですよね。吹き飛ばしてしまわないように「いきつめている」のは私なんじゃないかと思ったのですが、「夢をみて」という言葉からは「たんぽぽわたげ」が主語であることが分かります。たんぽぽもそんな風に思っているんだろうか、って思いながら読みました。絵本を読んだような読後感です。真ん中に「夢」という漢字が一文字あって、その前後の言葉が全てひらがななのもなんとなく絵本を彷彿とさせます。
鑑賞文には
歌集には、病気とのたたかいや、母親との葛藤が深刻な影をおとしている。
そうした苦しみをかかえた作者でなくても、ひとりひとりの人間は、完璧な球体の象徴する全きすがたからは遠い存在だろう。
でも、ひたむきな人の思いは、いつか全き球体となって、誰かのもとへとどく。孤独な願いと信念が、やわらかな一首の背景にはある。
こうありました。こういった背景があるから、「夢をみていきつめている」の言葉がより切実に感じるのでしょうか。
たんぽぽのわたげが「誰かのもとへとどく」とき、それはすでに「かんぺきなきゅうたい」ではないはずです。だから、なんだか儚い夢だなと思いました。鮮やかな黄色の花から白のわたげに変わり、ほんのひと時だけ「かんぺきなきゅうたい」になる。いきをつめて。でもその後、風に飛ばされてばらばらになることで誰かのもとへ届くんです。
だけどそれは「夢破れた」わけではなくて、「夢をかなえた」ってことなのかなぁと思いました。というか、そういう風にポジティブに読みたいと思わせる歌だなと。
太陽はほぼ完璧な球体でその扁平率は9×10−6です (yuifall)