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『暴力と不平等の人類史』『実力も運のうち』『僕はイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー2』などを読んで色々考えたこと。

 不定期読書感想文です。

 

 以前 読書日記 2024年3月20-26日 で書いていたように、

・シャイデル・ウォルター(鬼澤忍、塩原通緒訳)『暴力と不平等の人類史―戦争・革命・崩壊・疫病』

マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)『実力も運のうち 能力主義は正義か?』

・カール・ローズ(庭田よう子、中野剛志訳)『WOKE CAPITALISM 「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす』

広瀬隆『日本近現代史入門 黒い人脈と金脈』

ブレイディみかこ『僕はイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー2』

など読んで考えたことをつらつら書く。

 ただの感想文で、特に結論とかはありません。

 

 シャイデル・ウォルター(鬼澤忍、塩原通緒訳)『暴力と不平等の人類史―戦争・革命・崩壊・疫病』を読みました。大著ですが平たく言うと、第一次~第二次世界大戦という大量の人員を動員し多数の死者を出した大規模の世界大戦、暴力的かつ強引に施行され多数の死者を出した共産主義革命、国家そのものの崩壊・解体による資本の消失、ペストや天然痘など大量死を伴う疫病の蔓延という4つの要因によってのみ、過去には人類の平等が達成されてきたということが書かれています。つまり平等というのは主に暴力を伴う大量死という犠牲を伴うもので、しかも達成された暁には全員が中流というわけにはいかず、ほぼ全員が貧乏になることでなし得るものだと。最終章では平和的に不平等を解決する手段がないかどうか考察しているのですが、現状不平等は拡大の一途だそうです。まー、体感そうですけどね。

 大規模な世界大戦や強制的な社会主義、国家崩壊による平等の達成は現状誰も望まないでしょうが、疫病に関しては望まなくても起こり得ます。『暴力と不平等の人類史』はコロナ禍前の本なのですが、コロナ禍で平等が達成されたかどうかについては『WOKE CAPITALISM』に書いてました。それによれば、「労働者が失業や雇用不安、賃金の伸び悩みに苦しむ一方で、1%の人々はそれでがっぽりと稼いだのだ。(中略)彼らの総資産は過去の記録をすべて塗り替えた。一方で、世界中で格差が広がり、労働者はますます多くの借金を背負うようになった」とあります。つまり疫病によって、格差はむしろ拡大したと。

 これは現代の医療や社会制度をもってすれば、疫病はすでに世界全体に多くの犠牲を払わせて平等を達成しうる脅威ではないということだろうか。それとも、コロナ禍程度ではなくもっと大量死を伴うような疫病が蔓延すれば今後もその可能性はあり得るということだろうか。そのあたりはちょっと分からないのですが、過去にペストが蔓延した時の状況については『暴力と不平等の人類史』に書かれてます。私は当時の公衆衛生から考えると富裕層も貧民もペストにかかって貴族の大量死による富の流出と貧民の大量死による労働力の低下で平等がもたらされたのかなーと思っていたのですが、実際は大量に死んだのは社会の最下層だったそうです。やっぱり栄養状態とか、住居の密集とかも原因として大きかったのかな。ペストでもコロナでも結局疫病によって死という直接的な影響を受けるのは低収入の労働者層であることには変わりないようです。でも、ペストの時は労働者が大量に死んだことによって人手が足りなくなり、結果的に一人当たりの賃金が上昇して不平等が低下したと書かれています。コロナではむしろ「失業や雇用不安が広がり、格差が広がった」とあります。

 今コロナ後になり人手不足が深刻化しているようですが、これで賃金の上昇と不平等の縮小に繋がるんでしょうか。また、今後あらゆる先進国で少子化が進行することは目に見えていますが、そういう長期的な人手不足によって労働者が減少して一人当たりの賃金が上昇することはあり得るんでしょうか。『暴力と不平等の人類史』では平和的に不平等を解決する手段がないことが論じられていましたが、生産年齢の人口減少は戦争や疫病と同様、不平等を改善する社会的リスクにはならないのだろうか。

 

 しかし同時に、一体「平等」とはなんだろうとも思います。多分「格差社会」とか「不平等」という単語から連想するのは「一部の金持ちが富を独占し、真面目に働く一般市民の給与が低い」状況だと思うんですけど、例えばペストで大量の死人が出た際に不平等度が下がった時の状況として、「スキルプレミアムが低下し、非熟練労働者の待遇が改善した」と書いてます。つまりペストで労働者が大量死して人手不足となり、スキルが高かろうが低かろうがみんな給料が高くなったということです。これって平等なんだろうか?スキルの高い人と低い人が同じ給料を得る、あるいはその差が少ないのは平等か?あるいは、たくさん働く人とほとんど~全く働かない人の給料が同じだったら平等だろうか?大卒者と高卒者の給料が同じだったら?生産者と年金生活者のもらえる金額が同じだったら?

 この本ではそういうイデオロギー的な部分は論じていません。そういう目的の内容ではないからです。単純に、○人の人がいる国で一人当たりのGDPがこのくらいの時、富の偏りの最大値はこのくらいと試算できて、実際はその○%くらいの吸い上げ率になっている、という風に書いてます。つまり純粋に人口とGDPで論じているので、当然非生産人口などの労働によって富を生まない人数も含まれます。それも含めた「平等」です。そうなると当然、高福祉国(北欧や日本)は比較的不平等度が低く、アメリカや中国では高いということになります。

 

 その辺のことをメインで論じているのは『実力も運のうち』です。これは「能力主義」の功罪について書いた本です。能力主義とは、「出自や人種、性別、年齢、イデオロギーに関わらず、能力のあるものが成功する」という考え方のことです。これは一見正しく思えます。スキルが高い人は低い人よりも給料が高くあってほしいし、たくさん働く人はほとんど働かない人よりもお金を稼いでほしいし、大卒者は高卒者より(専門的な仕事ができることを前提に)給料が高くあってほしい、とたいていの人は考えるのではないでしょうか。でもそれは裏返すと、「今成功していないのは能力が低いからだ」と突きつけられているのに等しいということになります。1%の人間が25%の富を独占するアメリカで、では99%の人間は能力が低いのか?コロナ禍で格差が拡大したのは、失業や雇用不安に晒された労働者の能力が低かったからなのか?

 当然そんなことないですよね。実際は所得と能力の高さや努力は必ずしも比例するわけではありません。『実力も運のうち』では、金融業みたいな虚業が不適切なほどの高給を得ている一方で一次・二次産業従事者やエッセンシャルワーカーが低賃金であることが指摘されていますが、それは別に能力を反映した所得とは思えません。私はそれに加えて研究職も能力の割に低賃金だと思うな。仕事に関連した論文とか読んでるときっととんでもなく頭いいんだろうなーって人たくさんいるのを肌で感じるのですが、みんながみんな高給もらっているとはとても思えないし。頭がよくて努力すればお金持ちになれるなんて嘘だなんて、だいたいみんな薄々分かっている自明のことですよね。

 

 これを読んでそうなのかーって思ったのは、実はアメリカはかなり社会的流動性が低い社会だということです。裕福な親が自分の優位性を子供に受け継がせようと、一流大学に入れるためにスパルタ教育をしてプレッシャーをかけて同じ道を歩ませるからだそうですが、そんなの日本も同じだと思いますよね?でもこの本では、アメリカや中国はこの傾向が強く、社会的不平等度が低いスウェーデンや日本ではその傾向は弱いと書かれています。てことは日本とは比べ物にならないレベルの受験戦争があり、富裕層しかそれに対応できないということです。アメリカン・ドリームは幻想で、アメリカよりも日本、スウェーデンデンマークのような高福祉国、平等度の高い国(同時に累進課税相続税が重い国)の方が遥かに社会的流動性が高いのだそうです。つまり、アメリカよりもむしろ日本の方が、下層に生まれても上層に行ける可能性があるということです。アメリカではまさに「アメリカン・ドリーム」という幻想から一定の不平等は容認されており、累進課税も日本やヨーロッパより高くないそうで、『WOKE CAPITALISM』では大企業の脱税についても指摘されていました。すると、高所得者ほど指数関数的に手取り額が多くなり、高い消費税による逆累進課税もあって高所得者はますます高所得に、低所得者はますます低所得になります。それが世代を超えて引き継がれるのだとか。

 まあ、確かにそうですよね。不平等性が著しく高い社会、例えば中世の貴族社会は同時に社会的流動性も著しく低かったわけで、不平等を容認すればするほど社会的流動性が低くなるのは目に見えてます。想像してみると、アメリカのド田舎で高卒の親の元に生まれた子供がハーバード卒の金融エリートになれるかというと、日本のド田舎で高卒の親の元に生まれた子供が東大出て大手銀行に勤める方がまだ確率が高いように思えます。

 日本は、江戸時代には比較的社会の不平等度が低い社会だったそうです。それが変わったのは開国して「欧米に追いつけ追い越せ」が始まってからで、そこから社会の不平等が拡大したと『暴力と不平等の人類史』にはあります。『日本近現代史入門』に、実際にどんな人がどんな手を使って社会の富を独占していったかが書かれていました。それが一度ほぼ更地になったのが敗戦後で、そこから80年代くらいまでまた再び不平等度の低い社会だったそうです。戦後の全員が貧乏だった時代から、「一億総中流」と言われていた時代ですよね。そして今アメリカほどではないものの、格差は拡大しつつある、と言われています。ただし、見かけの低所得者層が増加したのは高齢化で年金生活者が増えたからとも言われているため、勤労世代の格差がどの程度拡大しているのかはよく分かりませんが…。所得が低いのも資産が多いのも高齢者世帯なので論じるのが難しいですよね。

 

 最近読んだ記事にこんなことが書いていました。

 

「東大理三→医師」がエリート街道でなくなる日 | インベスターZで学ぶ経済教室 | ダイヤモンド・オンライン

 

 ロンドンに拠点を移して20年の浅井氏に「日本経済の復活に何が必要か」と聞くと、「イノベーションを生む教育」という答えが返ってきた。そして「理三(東京大学理科三類)に行くような最優秀の人材が全員、コンピューターサイエンスを学ぶようになれば、日本も変わるのでは」と持論を披露してくれた。

 

 浅井氏が言う通り、その結果として「アップルがたった一個」生まれれば、確かに日本経済の風景は一変するだろう。

 

 無論、これは半分冗談の極論なのだが、実はこの「医学部偏重が日本のイノベーションの活力を殺いでいる」という見立ては、この10年ほど浅井氏と議論するとたびたび出てくる定番のテーマだ。

 

 私自身も似た懸念を持つとともに、「なぜ医学部なのか」という疑問を長年抱いてきた。私の仮説は「偏差値レースの最終戦で優秀さを証明する最適のゴールだから」という陳腐なものだが、おそらく経済的なファクターを含め、もっといろんな要素が絡んでいるのだろう。

 

 大学受験レベルで高偏差値の人たちが基本医学部を目指す風潮は偏りすぎだなぁとは私も思うのですが、イノベーションと受験における優秀さは基本的には無関係ですよね。コンピューターサイエンスに秀でた人たちはアップルの従業員にはなれても、スティーブ・ジョブズには必ずしもなれないじゃないですか。逆にイノベーションを生む人材がコンピューターサイエンスに秀でている必要はないし。ジョブズは「ウォズの魔法使い」ウォズニアックのスキルに頼ってアップルを生んだわけで(オリジナルのブルーボックスを作ったのも、ブレイクアウトの回路を改良したのも、AppleⅠの設計も全てウォズニアックの仕事)、イノベーションを生むのはむしろ優秀な人材をうまく活用し世間にアピールする能力の方です。

 

 マシュー・サイド『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の一部を抜粋・編集したweb記事によれば、

 

起業精神最低の日本だが数学は米英より得意、「失敗の捉え方」で成長格差 | ニュースな本 | ダイヤモンド・オンライン

 

 現代社会における問題のひとつは、「成功は一夜にして生まれるもの」という幻想が広まっていることにある。しかし現実には、成功はそんなに簡単に手に入らない。フリーキックを極めるにも、軍の士官になるにも、極めて長い時間がかかる。だが、それゆえに成長型マインドセットについては大きな誤解がつきまとう。成長型マインドセットの人は、無理なタスクにも粘り強くがんばり続けてしまうのではないか?達成できないことに取り組み続けて、人生を無駄にするのではないか?

 

 しかし、実際はその逆だ。成長型マインドセットの人ほど、あきらめる判断を合理的に下す。ドウェックは言う。「成長型マインドセットの人にとって、『自分にはこの問題の解決に必要なスキルが足りない』という判断を阻むものは何もない。彼らは自分の“欠陥”を晒すことを恐れたり恥じたりすることなく、自由にあきらめることができる」

 

(中略)

 

 アメリカの起業家は、最初のベンチャーが失敗してもそこであきらめることは滅多にない。「自動車王」ヘンリー・フォードはその典型だ。彼が最初に起業したデトロイト自動車会社は失敗に終わった。次のヘンリー・フォード・カンパニーもそうだ。そして3番目に創業したフォード・モーター・カンパニーで世界を変えた。彼はこんな言葉を残している。「失敗は、より賢くやり直すためのチャンスにすぎない」

 

 一方、日本ではまったく文化が異なる。複雑な社会的・経済的背景の影響によって、失敗は不名誉なものと見なされる傾向が強い。失敗は、基本的に自分だけでなく家族にとっても恥なのだ。ビジネスが失敗して非難されるのは珍しいことではなく、非常に厳しく責任を追及されることも多い。

 

 結局、医学部偏重とイノベーションの活力(のなさ)にもし関連性があるとすれば、それは原因ではなく結果ではないの?「偏差値レースの最終戦で優秀さを証明する最適のゴールだから」とか言ってるけど、私はそれは違うと思います。人の命を救いたいとかそういうお気持ち部分を度外視すれば、「不正解」や「脱落」に不寛容で目に見えないものや即役に立たないことにお金を払わない社会で安定的に高給を得るために、手に職を付けたくて行く場所でしょ?医学部って。偏差値とかそういう目先の問題じゃない、社会全体の問題だし、そんな風に高校生の虚栄心の問題として断罪してたら永久に変わらないよ。

 

 あと10年もたてば、『インベスターZ』を「古典」として読んだ若者が「なぜこの少年たちはそろって医学部志望なのか」と疑問に思う時代が来るかもしれない。これも漫画が持つ「時代の缶詰」としての面白さだろう。

 

とも書いてますが、おそらく時代感覚・経済感覚のある人間ならば全く疑問に思わないし思うこと自体がナンセンスでしょう。バブル期、官僚や銀行がもてはやされていた時代は文系が圧倒的人気だったと聞きます。結局お金になるからでしょ?その時代、その社会において安定的な給料を見込める仕事を選ぶ人が多いからで、それは責められることでもなければ疑問に思うことでもないじゃないですか。

 

 失敗に寛容な社会にならなければイノベーションもクソもないと思うしそうなるといいなとは思いますが、アメリカなら失敗は許される土壌があるなんていうのも頭からは信じられないですね。失敗が許されるのってそもそもが富裕層だからじゃねーの。

 

アメリカの起業家は、最初のベンチャーが失敗してもそこであきらめることは滅多にない。「自動車王」ヘンリー・フォードはその典型だ。

 

とか言ってますけど、成功したヘンリー・フォード一人の裏に失敗に終わった起業家が一体どれほどの人数いて、彼らがどうなったのかを私たちは知りえないわけです。もともと実家が太いなどで金がある人だけが失敗を恐れることなく何度もチャレンジできて、かつ運がいい人だけが成功できるんじゃ?

 その点、優秀な人が医学部を目指すのは悪くないと思うんですよね。実家が貧乏でも医学部に行って医者になればそこそこ安定的にお金は稼げるし、そこから起業すればいいじゃないですか。事業が失敗しても医者続けてれば食っていけるし、また何度でも挑戦できます。実際にリアル知り合いでIT起業してる医者が3人くらいいるのですが、みんな会社立ち上げながら医者もやってるよ。

 それに、正直言って「アップルがたった一個」生まれれば日本は救われるという考えには懐疑的です。確かにGAFAMみたいな大企業が世界を牽引し、アメリカ、中国などの経済を後押ししているのは事実でしょうが、よくよく考えてみるとこれらの国は強烈な格差社会です。何百億ドルの資産を持つ起業家がいる一方で、トレーラーハウスに暮らす人たち、ホームレス、ジャンキーがごろごろしている国でもあります。それが「強い経済」と言えるのだろうか?

 

『僕はイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー』のシリーズを読むと、著者の息子がイギリスの公立中学で受けている教育と日本の教育の違いについて考えさせられます。中学生に政治や経済について考えさせ、レポートを書かせ人前で発表させ、主要5教科以外にも複数の教科で評価する仕組みになっています。日本の公教育とは大きく違っている。もしかしたらそれこそが「イノベーションを生む教育」なのかもしれませんが、著者はそれについて安易に「イギリスの方がいい」とは書きません。というか、そういう「いい」「悪い」という評価はしません。私はどちらが公教育として優れているのか分からない。なぜなら、その教育を受けてきた人たちが今どうなっているか、その教育の結果横たわる現実にも著書の中では触れられているからです。それはとても理想的とは言えない現実です。もしかしたらこのような、「イノベーションを生む」教育は、強烈な格差社会を生むだけのものなのではないかと思ったりもします。

 

イノベーションを生む教育」の結果「アップルがたった一個」生まれることで日本経済の風景が一変する、という言葉を聞いた時、人がイメージするのは、「強い経済の再来」という夢でしょう。平たく言えば、平均給与の押し上げ、一億総中流の復活です。しかしもし実際に「アップルがたった一個」生まれた場合、日本全体の平均給与は上がるかもしれませんが、それは全員の資産が増大するという意味ではなく、富裕層と貧困層の二層に分断する格差社会が訪れるという意味に過ぎないのではないか?実際、上に書きましたが、アメリカでは1%の富裕層が25%の富を独占しており、その割合は拡大し続けています。それがイノベーションを生む教育の結果であれば、本当にそれが国にとって幸福なことだろうか。アメリカの上位1%を夢見ることが正しいだろうか。私にはそれが近代の「追いつけ追い越せ」の再現に思えます。日本はかつてその夢を追って強烈な格差社会となり、それによって少数のエリートが誕生し、彼らの帝国主義の理想が全てを破壊しました。同じことなんじゃないの?アメリカや中国のような巨大な帝国、強烈な格差のある帝国を理想にしてどうなる?

 

 平等とはなんだろう。かつてコミュニズムは独裁によって破綻しました。多くの人たちが理想を見たマルクス主義は、一握りの人間が富と権力を掌握することで醜悪なものになり果て破綻した。そして今、民主主義は資本主義の前に破綻寸前に追い込まれています。一握りの人間が富と権力を掌握する構図にまさになりつつある。それが能力主義の理想なのか?本当に、金を稼ぐ人が偉いのか?

 ただ、だからといってどうすればいいのか私は分かりません。アメリカ式やイギリス式教育は資本主義に屈し、日本式教育はグローバリゼーション、資本主義社会の中で限界を迎えようとしている。そうなってから今さら闇雲に「欧米式」に憧れる図式は、大日本帝国時代と変わらないのではないかという気がする。欧米の上澄みだけを見て正しいと思い込んでいるのではないか。欧米式にしたいなら、今とは比べ物にならないような底辺層が生まれる(自分自身がそうなる)覚悟はあるのか。「アップルを生む」なんていうのははっきり言って70年代の古臭い幻想にすぎず、それらを通過して現実を見た後の時代においては全く異なる形のイノベーションパラダイムシフトが求められているのではないか。

 アップルの創業、1976年ですよ?日本の70年代なんて一億総中流でウハウハだったくせに今から「アップルがたった一個」とか、今更何言ってんのって思わんか? 50年代生まれの人たちにお前らがアップルを生まなかったからこうなったって言えるのか??それをしてこなかった大人が今の高校生に対して、医学部目指すような偏差値レースじゃイノベーションは生まれないなんて言えるのか??

 そもそも「理三(東京大学理科三類)に行くような最優秀の人材が全員、コンピューターサイエンスを学ぶようになれば、日本も変わる」のではなく、「日本が変われば、理三に行くような最優秀の人材がコンピューターサイエンスを学ぶようになる」の間違いでしょ。なぜ18歳に日本のイノベーションの責任を押し付けようとする?子供に世界を救えって、RPGか?

ヴォネガット、大いに語る』でカート・ヴォネガットは若者に対しこう呼びかけています。

 

もし人々がみなさんに、世界を救う責任は諸君の双肩にかかっていると説得したとするなら、あなたがたもやはりだまされているのです。世界救済はあなたがたの責任ではありません。あなたがたにはそれだけの金も力もありません。重厚な精神的成熟の様相も見えません――ほんとうは重々しく成熟しておられるのかもしれませんが。あなたがたはダイナマイトの扱い方さえ知らない。世界を救うのはもっと年上の人の責任です。年上の人々の手助けをすることなら、みなさんにもできますが。

 

 そりゃそうじゃん。若者は好きに生きればいいんだよ。それを大人が「偏差値が」とか「医学部が」とか言うのほんと情けないと思う。『実力も運のうち』では、社会貢献度の高さや能力の高さと獲得する資産が全く比例しないことの一例として、小児科医よりもカジノ王の方がはるかに儲けていることにも触れています。高偏差値の高校生が(カジノ王や金融エリートではなく)医師を目指すなんて、社会的貢献度を考えればむしろ素朴で健全では?例えば「そんな素朴で健全な目標では物足りない。東大理三に入るような人は頭がよく生まれ付いたのだから、雇用の創出など、より多くの人間の幸福を目標とすべき。それがノブレス・オブリージュである」という言い分ならまだ分からないでもないですが(それでも子供に期待しすぎだとは思うけど)、「偏差値レースの最終戦で優秀さを証明する最適のゴールを目指して小さくまとまってるからイノベーションが生まれないんだ」なんていう、若者に責任転嫁した意地悪すぎる考え方はちょっと受け入れられません。

『僕はイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー2』の中には「労働者階級」に属する人たちと同じ目で世界を見ようとする目線があります。エッセンシャルワーカーやブルーワーカーを底辺層に追いやるような能力主義の教育、イノベーションが正しいのだろうか。AIや情報エンジニアリングが追い求めるものはお金なのだろうか。人類を幸福にしたいという願いではないのか。

 

 あと『実力も運のうち』読んで思ったのですが、ここでは「消費者は同時に生産者でもある。今まで消費者目線で資本主義社会は作られてきたが(安い方がいい、消費者の支持を得られるものこそが正義である)、これからは生産者目線で作り直していくべきではないか(労働者への尊敬を回復し、適切な賃金を与える)」と書かれています。それは本当に正しいと思うし、私たちは特に一次・二次産業従事者やエッセンシャルワーカー(運搬、介護、看護、保育、教育、電気、水道、ガスなど社会的インフラを支える人々)に敬意を払い適切な高い水準の賃金を支払うべきだと思う一方で、この少子高齢化社会においては、「消費者は同時に生産者ではない」ことが問題なのではないかと思います。高齢化が進めば進むほど、消費者は生産者ではなくなります。その結果、上にも書いたのですが人手不足によって生産者への尊敬や賃金は回復するのだろうか。それとも、数の暴力によってますます消費者目線の資本主義が進むのだろうか。

 

 平等とか、自分が何に値するのかということは、本当に考えれば考えるほど分からなくなるし難しいです。でも、アメリカ式、イギリス式の教育やイデオロギーが日本に幸せをもたらすとはとても思えないんだよなぁ。むやみやたらと欧米に憧れて「この国は駄目だ」ってする言説私は好きじゃなくて、日本の国民風土に合う幸福ってあるんじゃないのかなぁと思う。どうすればそれに近づけるのかは分からないんですけどね。