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「短歌と俳句の五十番勝負」感想35.舞台

「短歌と俳句の五十番勝負」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

まっくらな舞台の上にひとひらの今ごろ降ってくる紙吹雪 (穂村弘

 

 短歌では、「まっくらな舞台」と、おそらく終幕後に(どこかに引っかかっていた?)紙吹雪がひらひらと舞ってくる様子が詠われます。「紙吹雪」で連想される白さとあいまって、なんだか細いスポットライトで照らされているような、それでいて「舞台」という言葉から「主役にはなれなかった」というようなイメージもあり、詩的な光景です。さらに、「それを見ている人がいる」というメタな目線で見ても面白いなと思います。

 穂村弘のエッセイによれば、これは実際の舞台で「変なタイミングで降ってきた紙吹雪」を見た経験から生まれた歌だそうです。うーん、見ている方からすれば「どっかに引っかかってたのが落ちてきちゃったのかー」って思いますが、演出側はすごいショックだろうなー。

 

 エッセイの中では、舞台の上で役者が「噛む」ことについて触れられています。

 

でも、考えてみると、現実には噛むことなんてしょっちゅうある。それなのに、お芝居の中では噛んではいけないのは何故だろう。噛む方がリアル、ってことにはならないのかなあ。

 

 確かにそうなんですけどね。「事実は小説より奇なり」って言いますけど、創作の方が現実より不自由である、ということはままあります。推理小説の犯人の動機が「なんとなく」だとちょっとがっかりだし(そういう本で面白いのもありますけど)、「すごい偶然が重なる」みたいな展開はやっぱりつまらないし(リアリティがない、とか言われがち)、キャラクターの口調や物事に対するスタンスには一貫性があり(キャラ立ち)、物語の本筋に関係ない勘違いや嘘は基本的には存在しません(森博嗣とか、例外もありますが)。

 

 私が一番身近に感じる芸術作品は文学なのですが、特に女性の口調について、現実に即して「〇〇じゃないすか?」「つーか〇〇だし」みたいな口調を量産すると字面ではみんなスレた感じの若者っぽくなってしまいますけど、逆に字面だと女子っぽい「〇〇よね」「〇〇じゃないかしら」みたいな口調だと、これ現実でいなくね?ってなります。(*『法医昆虫学捜査官 スワロウテイルの消失』(川瀬七緒)の解説で主人公が「〇〇だよ」って口調で話すことを「男言葉」と書かれていて衝撃でした。「だよ」って男言葉なんかい。じゃあ女言葉だと「〇〇よ」とか「〇〇だわ」とか?そんな喋り方する女いなくないか?)

 この問題は舞台や映画だとある程度はクリアされそうですが、舞台だとやっぱり「声を張る」「動作を大きく」等の演出によって現実と解離しそうだし(でも声が小さくて動作が見づらい舞台はつまらなさそう)、映画だと「間」とかで現実とギャップがありそうです。

 

 多分、フィクションの世界では、変な言い回しになりますが、過度にリアリティがあると逆にリアルから遠ざかることもあるんだろうし、あとリアルだからいいってわけじゃないんだと思います。噛みまくりの人とか出されても困るしね…。『英国王のスピーチ』ならともかく…。しかしフィクションの“タメ”っていうか“間”が合わないなーと思うことも多く、バランス難しいですね。

 

 

みずいろの舞台に上がる水飛沫京葉線の夏の日だまり (yuifall)