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「一首鑑賞」-182

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

182.津波のやうに流行り病のやうにといふ比喩ひえびえと近寄りがたく

 (寺井龍哉)

 

砂子屋書房「一首鑑賞」で井上法子が取り上げていました。

sunagoya.com

 この「津波のように」は東日本大震災を、「流行り病のように」はコロナ禍を言っているのだと思いますが、この「比喩」が使われたのは実際にこれらが起こる状況の前だったんじゃ、って咄嗟に思いました。

 有名なサザンオールスターズの「TSUNAMI」という曲、今調べたら2000年のリリースでした。あの歌のニュアンスから考えると、「あなたと見つめ合うだけで、大きな高波のようなあらがうことのできない侘しさにさらわれる」という感情的なうねりの比喩としての「津波」だと思います。でも実際に津波による大災害を目の当たりにした後では、その比喩が「ひえびえと」感じることもあるのかもしれない。Wikipediaを読むと、あの大災害の後でも被災地のラジオ局にリクエストがあり、実際にかかったときにはほとんどが肯定的な反応だったそうです。だから、文脈によっては「ひえびえと」受け取られないことは十分にあり得ると思う。でも一方で、どんな名曲であっても、というより全く同じ曲であっても、あの災害の後にリリースされたのだとしたら受け入れられなかったのではないか、という思いも確かにあります。

 

 「津波のように胸をさらう」、「流行り病のように広がる」、みたいな言い方は、かつては比喩とも言えないような何気ない表現だった。でも実は「津波」や「流行り病」は大勢の人の命を無惨に奪い去ることができる存在で、何気なく、あるいは軽々しく使っていたこと自体が言葉に対して無関心すぎた、ともいえるのかもしれません。鑑賞文には

 

あるいは言葉そのものを、ではなく、そのような「比喩」を使ってしまうかもしれないにんげんの、

想像力の至らなさを、思慮の浅さを、思考の怠惰を戒めとして指し示しているような歌だと感じました。

 

とあります。

 

 でもなあ。例えば「流行り病のように」という比喩、「その噂は流行り病のように広がった」みたいに使われると思うんですが、それは「その噂」が人を害しうる、あるいは人の命を奪いうる特徴を持つことも含めて喩えられているんじゃないのかなぁ。かつて何度も何度も人間は流行り病で死んできた。あるいは、津波もそうです。それを比喩的に用いることがそれほど「ひえびえと近寄りがたい」だろうか。そこまで考えて考え抜いて言葉を使わなくてはならないとしたら、それは辛いなぁとも思ってしまいます。というかそれはむしろ安易な言葉狩りにすぎないのではとさえ思う。

 

 もしかしたら、私の最初の咄嗟の印象とは違って、この歌は「津波」も「流行り病」も起きてしまった後に、そういう言葉を使った比喩表現をすることへの「近寄りがたい」感覚を言っているのかもしれません。でももしそうだったなら、個人的には、「近寄りがたい」というよりも、なぜわざわざこの言葉を使ったのか、と感じると思う。浅薄なのではなく、意図的なのではないか。有史以来津波は何度でも起きてはいますが、現代日本では2011年3月11日を境に「津波のように」という比喩表現の意味合いが変わってしまったわけで、その後に使われているのだとしたら、そこに大震災と重ね合わせる意図をこそむしろ読むべきなのではないか。例えば漫画とか架空のキャラクターの誕生日が8月15日に設定されていたら違和感をおぼえるのと同じような感覚です。なぜわざわざその日?なぜわざわざその表現?って。

 

 ポリコレとかもそうだけど、時代に合わせて言葉のニュアンスや使うことのできる言葉は変わっていくと思う。それに敏感であることは大切です。でも、「津波」という言葉から「津波」という意味以外を、「疫病」という言葉から「疫病」という意味以外をそぎ落とすことが果たして正しいのだろうか、と思う自分もいる。それはいわゆるジョージ・オーウェル的な「ニュースピーク」のようなものなのではないか。

 多分この歌の言っていることとは全然違うと思うし、もしかしたら私はこの作者よりも言葉への感覚が鈍いのかもしれないのですが、そんな風に考えました。まあ、でも、この歌がどういう文脈上で詠まれたものなのかは分からないし、もしかしたらそれが分かれば「ああ、確かに」って思うのかもしれない。

 

 

 ここで一旦閉めたのですが、その後も色々考えたことがあって…。私はTSUNAMIの歌を嫌だと思ったことはなかった。でも、Vaundyの「東京フラッシュ」という歌を聴いた時、この歌自体はとても好きなんですけど、

 

Stage 4の癌にかかっているみたいかい

 

っていう歌詞にものすごく引っかかったんですよね。今でも完全に納得はできてない。この比喩表現に関しては全然当事者でもなんでもないけど、中世~近代ならいざ知らず、現代日本においてはどんな恋愛も、絶対に、「Stage 4の癌にかかっているみたい」ではない、と思う。なぜこの表現を使ったんだろう、ってこの歌を聴くたびに考えてしまい、正直曲を味わう上でノイズになってる。だから、「ひえびえと近寄りがたく」の感覚が分かる、と思うときもあります。

 自分でも「津波」と「Stage 4の癌」の自分の中での受け入れがたさの差がどこにあるのかよく分からないのですが。やっぱり「前」と「後」の違いだろうか。でも、「津波」だって東日本大震災の以前にも何度も起きていて、そのたびに何が起きていたかは分かっていて、だからこそ「津波」って言葉があってそのニュアンスが表現された歌なはずで、やっぱり分かりません。人の死や苦しみに寄り添うことは大切だけど、言葉の使い方や表現までタブー視したり倫理でガチガチに縛ったりするのが果たして正しいのだろうか。

 ただ、やっぱりこういう表現を使うからには「ノイズに思われる」こともあることは意識した方がいいんだろうなとは思いました。それを分かった上で、どうしてもこの言葉を使いたい切実な理由があるかどうか。「想像力の至らなさ、思慮の浅さ、思考の怠惰」で使ってしまうのではなく、想像を巡らせ、思慮を深くし、それでもこの言葉を使いたいかどうか。そういう思考は望まれているのかもしれません。

 

 

ウミウシのように捨てたい頭から落ちたハートは壊死するだろう (yuifall)