山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
小川佳世子
もうええんちゃうのと君は言っていた私は麦酒の泡を見ていた
いっぺんも好きやて言われへんかった螢火も見ず逢いみし時も
京都出身の方です。こういう歌、たまらんですね。関西弁の女性の相聞歌、めっちゃかわええ♡ 解説には
印象的なのは、関西弁を取り入れた歌である。方言は究極の口語であり、作者の肉声に近い言葉だ。それを小川はうまく定型に馴染ませて演出している。(中略)関西弁の歌のほとんどに「言う」という動詞が入っているように、肉声を出す身体感覚を小川は大切にしているようだ。
とあります。「もうええんちゃうの」「好きや」って、本当に言われた(あるいは言われなかった)言葉なのかは分からないのですけど、そう「言った」「言わなかった」人をこういう形で描くことによって浮かび上がる鮮やかさに憧れます。
京都の街を詠った歌も多数引用されているのですが、
とこしえに曲がり切れないカーブだといつ曲がっても思う箇所あり
なんて、多分どこの景色であってもいいんでしょうけど、京都のどこかだと思うとそれだけで異世界へ繋がっているような不思議な感覚になりますね。こういう歌は、ほんとうにここにいる人じゃないと詠めない歌だなってなんというか、悔しいというよりも、なんだろうな…。遠い憧れですね。私にはこういう人生はなかったな、っていう諦めの気持ちになりますね。
こういう言葉は持ちえない、って思うこと、短歌を読んでいるとよくあるのですが、感性の違いだけではなくて、そもそも生まれ育ちから土台が違うからこの言葉は出てこない、っていう言葉に出会うと、「自分にはなかった人生」っていうものを強く意識します。「あったはず」みたいな、どこかでこういう道を選んでいたら、っていう選択を越えたところで「ありえなかった人生」みたいなものです。外国の小説とか読んでてもよく思うんですけど…。でも、やっぱり京都っていいですね。憧れます。
南北に遠くあれども時差の無いオーストラリアのようなあなたか
いくらでもやさしくしたい 間違っていなかったこと教えてくれた
標準語の相聞歌も多数紹介されています。オーストラリアの歌、どういう比喩なんだろうな。なんか、韓国みたいに、「近いのに遠すぎる」みたいな比喩ならなんとなく分かるんですけど、「遠いけど時差がない」っていうのは、人との関係においてどういったメタファーなのかな。物理的には離れていても価値観が似ているってこと?ぱっと見好きだなって思うのに解釈できない歌の中の一つです。「やさしくしたい」の歌も私には合理的あるいは具体的な説明は困難なのですが、それでも好きです。
時々、こういう、好きなんだけど解釈できない、あるいはうまく説明はできないんだけど好き、っていう歌人さんに出会います。解説については元のページをご参照ください(笑)。
タンブラーいっぱいのモカ つまんない言葉ばっかのファックス 夜は (yuifall)