山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
和田大象
キャプテン・シンドバッド浸水感知せず船荷の罌粟(ポピー)はげしき発芽
黒胡麻すり潰しをれど なほのこる粒 野望などとうに忘れた
この人は「ごま屋」の経営者らしいです。「ごま」という植物から連想される泥臭い感じではなくて、こういう、香辛料を求めて世界が切り開かれた貿易や経営といった目線があり、いい意味で思い込みを完全に裏切られます。
ビリヤードの卓の緑にくみふせて君を愛さむバーボンに痴(し)れ
これとか、とにかく引用されている歌のハードボイルドさにはくらくらします。
1950年生まれかぁ…。何年生まれくらいからこういう歌真剣に詠めない世代になるのだろうか。うーん、でも男が葉巻一本に目の色変えたりジンやウォッカの銘柄の蘊蓄垂れたり親友や惚れた女のために命をかけて外車をぶっ飛ばしたりするストーリーへの需要が絶える日は来ないのかもしれないし、ちょっと分かりません(そういえば最近の二次創作でも見たなー、ビリヤード勝負ののちにキュー使って物理で戦うやつ…)。
ただし解説には
苦みばしった大人の歌という感じだが、虚構めいたムードがあるのも確かである。映画監督志望だったという経験が関係しているようにも思える。
とあり、もしかすると「真剣に」っていうよりもわざと過度なハードボイルド感を醸し出しているのかもしれません。
青春の歌も引用されます。「緑のイメージが鮮やかなのが印象に残る」、と解説にあります。
春蝉を素手で捕へて誇らしく緑したたるなかの少年
夕焼の火をくぐりゆく観覧車重き告白もう降りられぬ
この「観覧車」の歌が印象に残りました。どんな告白を、誰が(どちらが)したのか。降りられないならどうするのか。このまま永遠に回り続けるのでしょうか。一人で?それとも、告白をした人あるいは聞いてくれた人と一緒に?「青春の香り高い歌」として引用された一連に含まれるので、青春歌(相聞歌?)かと思ったのですが、実際の歌集ではどういう文脈に位置するのか分かりません。そして、あまり恋愛の歌という感じもしませんね。
「観覧車」の歌は、東郷雄二がサイト『橄欖追放』にコラムを書いていて、それがとても面白かったです。
その中で
観覧車のぼりゆきたるたまゆらを秋に傾くふたりの錘り (辰巳泰子)
を引用してこのように書いていました。
「秋に傾く」を「秋の方向へと傾く」と仮に解釈するならば、秋は英語でfallだからこれは恋心が冷えてゆく歌だということになる。どうもそのように解釈した方がよいと思えるのは、遊園地での観覧車の愉しさを詠んだ歌は皆無であり、逆に観覧車が何かの衰退・凋落の喩として用いられている歌が多いからである。おお、歌人というのは何とネガティヴ・シンキングの人種であることか。
何かの衰退、凋落かぁ。「もう降りられない」観覧車はまた昇っていくわけですが、どう考えるべきなんだろうなぁ。ちなみに「観覧車」の歌に引用されていた歌の中では
百年も夜がつづいてゐたとおもふ観覧車のいただきに着くころ (林和清)
に何となく心惹かれました。作者名を見て、京都の長い夜みたいなものを連想したからかも…。もちろん
観覧車回れよ回れ君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ) (栗木京子)
は大好きですけど…。全部で11首引用されています。この中には入っていませんでしたが、
違う世にあらば覇王となるはずの彼と僕とが観覧車にゐる (黒瀬珂瀾)
も、観覧車の歌として有名かなーと思います。この歌、noteにブログ書いている人の解釈が面白かったので熟読しました。
話はだいぶ逸れましたけど、こうやって一つの言葉に注目して短歌を色々読んでみるのも面白いなと思いました。あと、誰かの考察読むの大好きです。
乗ることのない観覧車を、なぜだろう、その指先に思い出すのは (yuifall)