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「一首鑑賞」-138

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

138.スイミングスクール通わされていた夏の道路の明るさのこと

 (鈴木ちはね)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」で井上法子が取り上げていました。

sunagoya.com

 鈴木ちはねという歌人のことを、ほとんどこの砂子屋書房の「一首鑑賞」コーナーからしか知らないのですが、たびたび取り上げられているし、つい気になってしまいます。多分本来なら自分が好む系統の歌じゃないんだけど…。でも永井祐や井上法子の鑑賞文を読んでいると、おそらくこの人の歌はぱっと見の印象よりもテクニカルなのかもしれないと思ったりしました。だから、よく分からないと思いながらも心惹かれるのかもしれない。

 

 前回引用した

 

夜に降った雨が上がっている朝にバス停の屋根をはみ出して並ぶ (鈴木ちはね)

 

yuifall.hatenablog.com

では、夜「に」降った雨「が」上がっている朝にバス停「の」屋根「を」はみ出し「て」並ぶ、と、定型に合わせるよりも助詞を省略しないことを重視している、と書かれていましたが、今回は逆にスイミングスクール「に」の「に」が省かれています。

 これは井上法子の鑑賞文がとても面白いと思いました。この歌が含まれる連作のタイトルが「スイミング・スクール」なのだそうですが、

 

タイトルと、この歌とを交互に見つめてみる。すると、タイトルにはあったナカグロが、歌の中では消えていることに気がつくでしょう。そのとき、この歌に対するわたしたちの読みあげ方は、

 

スイミング/スクール通わ/されていた/夏の道路の/明るさのこと

 

という、57577の韻律に正しく則ったものから、

 

スイミングスクール/通わされていた…

 

と、初句七音の歌へと様変わりする。

 

すると、初句五音のときに気にかかる「スイミング・スクール(に)通わされていた」の「(に)」の省略が、「スイミングスクール/通わされていた」と、韻律のおさまりの良さに耳が引っ張られて、省略された助詞そのものが気にならなくなる。

 

とあります。

 そこまで考えて短歌読んだことなかったなー。「スイミング・スクール」と表記したときと、「スイミングスクール」と表記したときでかなり印象が変わるんだ。でも絶対、タイトルは「スイミング・スクール」の方がいいですよね。

 

 歌の内容はシンプルで、夏に親か誰かにスイミングスクールに通わされていて、道路が明るかったと。夏休み中の臨時スクールかなあ。どちらかというと学校の夏休み中のプール開放を連想させるイメージです。スイミングスクールってどっちかいうと暗いイメージがあります。悪い意味の「暗い」ではなくて、放課後通うとか、屋内であるとか、必ずしも夏に限らないとか、そういう物理的な意味の暗さです。

 

 でもやっぱりプール開放とは違うかな、って思うのは、この人が一人でいるっぽいからだろうか。プール開放は(少なくとも私が子供の頃は)地域ごとの時間開放だったから、近所の子供たちと一緒だったもん。歩いて行ける距離のスイミングスクールに夏休み中だからって通わされていて、もしかしたらプールでは友達に会うのかもしれないけど、友達は親が送迎するとか住んでる場所がそれほど近くないとかで行き帰りは一人で道路を歩いていて、でも帰ったら親がいるんだろうな。

 子供の頃って一人でいられる時間があまりなかったから、そういう時間の明るさを妙に覚えていたりして、そんなことを思い出しました。

 

 

本だけが僕を一人にしてくれた西日の部屋の終末の午後 (yuifall)