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「一首鑑賞」-122

「一首鑑賞」の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

122.すこしづつ息のはやさがずれてゐて合はさつた手のおもさかんじる

 (河野美砂子)

 

 砂子屋書房「一首鑑賞」で都築直子が取り上げていました。          

sunagoya.com

 冒頭に

 

あなたとわたし。二人の世界。官能的な歌だ。息ぐるしいほどの生々しさを感じる。二人はいまどういう状態にあるのか。息のはやさを感知できるのは、至近距離にいるからだ。並んですわっている、寄りそって歩いている、抱き合ったまま立っている、ベッドの上にいる。読んだとたん、考えるより先に浮かぶイメージは、読者によりさまざまだろう。正解はない。こんな場面かもしれない、あんな場面かもしれない、と感想をのべあって楽しめる歌だ。

 

とありましたが、私はセックスの歌だと思って読みました。「ベッドの上」ですね。「すこしづつ」息のはやさがずれているのだから、何度も何度もせわしなく息を吐き合っている状況なはずで、それは「すわって」も「歩いて」も「立って」もいない、と思います。走っているならあり得るけど、その場合「合わさった手」が状況に合いません。手をつないで走るまいよ。しかもその場合重くもないだろうし。

 

 しかし鑑賞文ではその点を、「ことばのねじれ」と解釈しています。少し長く引用します。

 

「すこしづつ息のはやさがずれてゐて」の、「すこしづつ」は、「ずれる」に係る。これはふつう、多数の主体に対する表現だろう。たとえば、山小屋で雑魚寝の最中に目覚めた人が「みんな少しずつ寝息がずれているな」と感じる場合などだ。そのため、上句を読んだ者は、無意識のうちに数人の人間ないし動物を思う。ところが、下句に来ると「合はさつた手のおもさかんじる」と、登場人物は二人であることがわかる。意識の表面にのぼらない領域で、読み手のなかに違和感が生じるだろう。

 

もしも上句の末尾が「すこしづつ息のはやさがずれてきて」と「きて」だったら、「すこしづつ」は、「ずれて」ではなく「きて」に係る。「少しずつ寒くなってきて」などと同じだ。この言い方ならば、二つのものの息がずれていることを、あらかじめ予想できる。だが、歌の生々しさは消えてしまう。複数の登場人物を予想させる上句から、下句で二人の世界が展開するときの、かすかな違和感、ことばのねじれが、隠し味となって歌に切迫感を呼びこむのである。

 

 確かにそうも読めるのかもしれないのですが、やっぱり、「すこしづつずれてゐて」の「すこしづつ」は「複数人の息」ではなくて二人のせわしない息遣いを暗示しているように私には読めます。「複数」じゃなくて、スピード感の表現だと思う。私もあなたもせわしなく息を吐き合っているのに、それは少しずつずれていて重ならない。重なっているのは手の方で、そこに重さを感じる、という状況です。手に体重がかかっているんですよね。彼の全体重が、そこにぐぐっと。

 

 でも、この鑑賞が間違っている、と言いたいわけじゃないです。というより、言われてみれば自分の解釈はちょっと視野が狭すぎる感じもするし…。私は感覚的にいつもストーリーを読んでしまうのですが、こうやって文法とか韻律に則った解説を読むのはすごく勉強になるし、色んな解釈があるんだな、と興味深く感じます。自分の感じ方や考え方が全てじゃないって分かるし、読んでよかったと思います。こうやって「読み」を読むことによって読み方の幅が広がるのが楽しいです。

 

 

こうやってきみが降らせるながれぼしつかまえたくて目、閉じて縋る (yuifall)