百人一首現代語訳 感想の注意書きです。
二十一・今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな
新古今和歌集 巻一四・恋四・六九一 詞書「題知らず」 素性法師
「すぐ行こう」という言葉を信じたばかりに、長月の
有明の月が出るまで夜通し待ってしまった。
「すぐ行くよ」なんておっしゃるから
私はずっと待ってたの
秋の夜長のながーい夜を
有明の月が出るまで
朝まで寝ないで待っていたわ
(さ・え・ら書房 『口語訳詩で味わう百人一首』 佐佐木幸綱)
「今行く」と 言われたおかげで 九月(ながつき)の
有明の月を 待ちぼうけかな
ぼくもです。と
きみからメールが来て
わたし
こころだけになって
ずっとまってた (今橋愛)
この歌は「今来む」と「有明の月」の両者に重心があるような感じがします。今橋愛の訳はすごいインパクトで、見た瞬間に心を奪われたのですが、元の歌で言うと「今来む」の一点に重心を張っていて、「有明の月」はなくなってますね。
ここでは「今来む」が「ぼくもです」になっていて、何に対して「ぼくもです」なのかは分かりません。元の歌は「今から行くよ」だけどここでは「ぼくも行くよ」ということはちょっと考えにくく(「今から行くよ」「ぼくも」じゃ、会えねーだろ!ってなる笑)、最初は「好きです」に対して「ぼくもです」なのかな、と思ったのですが、それだと「ずっとまってた」と合わないし、「会いたい」に対して「ぼくもです」なのかなと思いました。
だから、おそらくこの2人は何の約束もしてないんです。「会いたい」「ぼくもです」ってやり取りして、それだけなの。だけど、「こころだけになって ずっとまってた」。この「こころだけ」がたまんないですよね。だから有明の月は見られないんだな、多分。目というか、肉体がないから。「こころだけ」なんだから、ずっと待っていられる。つまり、ここの「ずっとまってた」は、おそらく明け方までとかそういうレベルじゃなくて、ほんとうに「ずっと」なんだと思います。だから「有明の月」が登場しないんじゃないかな。
この2人は会えたのかな、って思って、多分まだ会ってないんじゃないかな、って感じがしました。まだこの女の子は「こころだけ」でずっとまってるんじゃないかなって。和歌のやり取りが手紙になり、メールになり、テキストアプリに変わった今も、ずっとまってるんです。
それにしても、元の歌に戻りますと、作者がお坊さんだし作り話なのですが、もし本当にこういう立場だったらどうかなーって考えました。「言い訳をしてよ、もしもあなたが『(たとえば)怪我で来られなかった』って言ってくれたら嘘でも信じるわ、そして怪我が治ったら来て」、ってさりげなく嘘を許しつつ執行猶予を与えるか、「ふざけんな、別の女ができたならはっきり言えやこの野郎」ってブチ切れ対応するか(笑)。
現代だったら簡単に連絡とか取り合えるし、連絡もないってことはそういうことねふざけんなって感じですが、当時はなー。男に通ってもらえなくなったら終了的な状況だったら、しおらしくした方がいいのか、それともしおらしくして舐められたらどっちにしろダメなのか…。その辺の駆け引きがよく分かりません…。さっさと出家した方が楽かもしれん…。
「今行く」と言ったあなたの背の遠く下弦の月が溶けるまで見てた (yuifall)