「一首鑑賞」の注意書きです。
1.ドーナツに埋めようがない穴がありこんな時間に歯を磨いてる
(生田亜々子)
砂子屋書房「一首鑑賞」で平岡直子が紹介していた歌です。
最初にその鑑賞文から一部を引用します。
この一首から見えてくる「埋めようがない穴」はひとつではない。
まずはもちろんドーナツの穴。それから、口蓋だ。顔にあいているいくつかの埋めようのない穴のなかで最大のもの。歯磨きという、歯ブラシにせよ歯磨き粉にせよいったん穴に入れたものがのちに徹底的に取り出されるという特徴のある行為によって、その埋まらなさは強調される。(中略)
また、べつの読みかたをすれば「ドーナツに(よって)埋めようのない穴が(わたしには)あり」だろう。ドーナツが埋めてくれない精神的な穴については染野さんの鑑賞に詳しいけれど、口からはじまる消化器系がいわば一本の管である以上、肉体的にもこの穴は底が抜けているようなもので、ドーナツを食べても埋まらないことは間違いない。そして、ドーナツと口蓋を比較するといちばんの違いはまさに「歯」の存在であり、これが新生児や老人にはないものであることを考えると「時間」というキーワードの重みが効いてくる。
染野太朗もこの歌の鑑賞文を書いているので、そちらも参照しました(というか染野太朗が先に書いていて、平岡直子はそれに触発されて書いたようです)。
この一首から見えてくる「埋めようがない穴」はひとつではない。
まずはもちろんドーナツの穴。それから「ドーナツに埋めようがない穴があ」る、ということを喩として語られた心的ななにか、あるいは状況。不全感、欠落感、飢餓感、というようなもの。それが具体的にはどんなものか示されてはいないけれど、ドーナツの穴をそのようなものの喩としてとらえることはむしろありがちなほどだし、容易に想像がつく。そして「こんな時間」にドーナツを食べてしまうような空腹そのもののこと。つまり、心的な飢餓感ではなく、身体のそれ。もちろんそれはすぐに満たすことのできるものだから「埋めようがない」とまでは言えないけれども、飢餓感として印象は十分に重なる。そしてさらに、夜遅い時間にドーナツを食べてしまったという事実。取り返しようがない、もう変えられない、という点において、その「食べてしまった」ということも「埋めようがない」ということのイメージに重なるはず。「こんな」時間、のニュアンスにそれを見てとれる。
私は、この歌は摂食障害の歌なのではないかと思って読みました。
この歌には、食べもの、もっと言えばドーナツに象徴される「砂糖と油」、そういった罪悪感のある甘美、そこからどうしても逃れられない執着のようなものを感じます。ドーナツと屈託なく向き合える人からはこんな歌は生まれないと思う。午後のおやつとして、健全に食べることのできる人ならば。
どうしてドーナツだったんだろう、と思います。
もし夜中に起きて、どうしてもお腹がすいていたとしても、別にドーナツを食べる必要はないわけです。ドーナツは嗜好品であって、家に必ずあるものではない。もしドーナツがあるような家なら(少なくともうちに基本的にドーナツがあることはない)、他の食べ物だってあるんじゃないかと思うんですよね。
ドーナツの穴は、ドーナツのアイデンティティと言えるんじゃないかな。あの形状だから、ドーナツだと思う。もちろん中にあんことかが入ったやつもあるけど、あれは一種の揚げあんパンであり、ドーナツはあの穴があってドーナツなんだ、というのはある種の共通認識だと思う。
だから、「埋めようがない穴」を持っているのはドーナツの、まあ言ってしまえば一種の業です。埋めてしまえばドーナツではなくなってしまうのだから。
「こんな時間」(おそらく深夜とか、一般的にドーナツを食べるべきでも歯磨きをするべきでもない時間帯)に「歯を磨いている」ということは、ドーナツを食べてしまったか、ドーナツを食べずに我慢しているか、両方の状況が示唆されます。
染野太朗が指摘せずに平岡直子が指摘している点が一点あって、それは
ダイエットの本に、おやつが食べたくなったら歯を磨きましょう、と書かれているのを読んだことがある。気がまぎれるんだそうだ。埋めようのない穴を埋めようとせず、その穴を磨くほうにシフトするのは建設的でポジティブな態度だ。そして、歌人として正しい判断だとも思う。
ということです。これはもしかすると平岡直子が女性だから書いたことなのかもしれない。
一つの可能性として「ドーナツを食べずに我慢している」ということをあげたのは、もしかしたらこの人はダイエットのために、ドーナツを我慢する目的で歯を磨いたのかもしれない、と思ったからです。その場合は、「食べていない」ということも考えられます。歌には「食べてしまった」とは一言も書いていないわけですから。夜中に、どうしてもドーナツが食べたくて、でも食べないために歯を磨く。その場合、ドーナツの「埋めようのない穴」はまだそこにあり、自分の精神的な空白、あるいは飢餓感もそこにまだ残っている、と言いたいのかもしれない。
もう一つの可能性として、「ドーナツを食べてしまって歯を磨いている」という状況が考えられます。というか、こちらが一般的な理解だと思う。自分自身の「埋められない穴」を埋めるためにドーナツを食べてしまう。食べてしまえばドーナツの穴は消失するし、少なくとも空腹は埋まるのかもしれない。しかし、精神的な穴や、染野太朗が指摘するように、「ドーナツを食べてしまった」という事実もおそらく残るだろう。
この読み方、正しいのか分からないし、でも正しいかどうかはどうでもいいと思ってもいるのですが、この人は食べたドーナツを吐いたんじゃないかな、って歌読んで思ったんです。たぶん、「埋めようのない穴」という言葉から。
普通に読めば、このドーナツは食べられるために買われた(あるいは作られた、あるいは貰った)もので、単に適切でない時間帯に食べてしまったために「こんな時間に」という状況が生じているんだと読めます。
でも、私は、この人(この歌の主人公)はきっとドーナツを食べて、そして吐いたんだって思った。心の中の「埋めようのない穴」、それに吐いてしまった後は胃もからっぽだし、多分、自分の未来にも、「埋めようのない穴」がある。またやっちゃった、自分はずっとここ(病的な状態)から抜け出せないんだ、この「埋めようのない穴」こそがアイデンティティであるドーナツのように、この「埋めようのない穴」こそが私自身なのかもしれない、という絶望感。
この歌の衝撃は同じ穴のある食べ物でもなんとなくヘルシーなイメージのある「ベーグル」だったら生じないのではないかという気持ちもあって、このドーナツに感じる業、それを「女の」業、というか、「外見や他人からの評価に拘り、成熟を拒絶するこのへの業」と捉えるのは深読みしすぎでしょうか。
それを踏まえた上で、私の考えたストーリーはこんな感じ↓
その日は飲み会で、二次会、三次会くらいまでいって深夜になって、多分なにか楽しいことが起こるんじゃないかって期待してその時間まで遊んでたけど特に何も起こらず解散することになって、この人はいつもは食事を我慢してるんだけどこの日はもう飲み会でたくさん食べちゃってるからもういいや!って気になって、24時間営業のドーナツ屋かコンビニかどっかで普段我慢してるドーナツを買い込んで、家に帰って頭を空っぽにしてひたすら食べまくる。だからこれらのドーナツは食べられ、そして吐かれるために買われたドーナツで、しかもひとつじゃなくて、「埋めようのない穴」は無数にある。それで満腹になってから全部吐いちゃって、ああ、私って穴が開いてるな、って。そう思いながら歯磨きしてる。歯が胃酸にまみれてるから、歯磨きしなきゃって思いながら。こんなこともうやめたいけど、この埋められない穴が私なんだ、って思ってる。深夜かもしれないし、もしかしたら明け方かもしれないなって気もします。もう朝で、時計が一回転して一日が始まろうとしている。
Florence + The Machine がShake It Outで歌ってたよね。そう、一番暗いのは夜明け前。
Shake It Out (Florence and the machine) 和訳 - いろいろ感想を書いてみるブログ
さきほど「ベーグル」では衝撃は発生しないと書きましたが、
ベーグルに埋めようがない穴がありこんな時間に歯を磨いてる (改作例)
だとしたら、違うベクトルの衝撃があるようにも思えます。「ベーグル」のイメージは、すっごいステレオタイプ的に書くと、ヘルシー、NY、キャリア、スニーカー、みたいな感じです。NY在住のキャリアウーマンで、朝にテイクアウトのベーグルとスタバのコーヒーを買って出勤して、デスクで朝食みたいな…。だから、この場合「埋めようのない穴」の辛さは「キャリア上の辛さ」ということになりそうです。「こんな時間」も深夜とか早朝じゃなくて、午前中遅い時間。ストーリー的には↓
本当は朝早く起きて颯爽と出勤し、コーヒーとベーグルの朝食をとってばりばり働くような生活に憧れてる。だけど、現実は非正規労働者で、出勤は午後から深夜で、朝食はいつもお昼近くになってからとる。こんな時間にベーグル食べて歯磨きしてる自分、キャリアへの未練がにじみ出ててみじめ。だけどどうしたってこの生活からは抜け出せないだろう。
って感じ。
ところで「穴」「歯」というと、昔ヴァギナに歯が生えていたという伝説を思い出します。
そこから、
夢に棲む女が夢で生みし子を見せに来たりぬ歯がはえたと言いて
という吉川宏志の歌を連想しました。
bite my heart
AM4:00、ミスド 君のサテンのくちびるが俺のハートに噛みついている (yuifall)