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小林恭二 『短歌パラダイス』感想 2-10「芽」

『短歌パラダイス』感想の注意書きおよび歌合一日目、二日目のルールはこちらです。

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 十番勝負は「芽」でした。この回、正直言って読んでて一番なんというか自分にがっかりした回でしたね…。

 

幾千の種子の眠りを覚まされて発芽してゆく我の肉体 (一郎次郎)

約束は三時でしたね 微熱もつ発芽月(ジェルミナール)のきみの叛乱 (七福猫)

家々に釘の芽しずみ神御衣(かむみそ)のごとくひろがる桜花かな (ぐるぐる)

 

 

幾千の種子の眠りを覚まされて発芽してゆく我の肉体 (一郎次郎)

 

 「一郎次郎」は、おそらく恋によって肉体的に官能を得る、ということだと思うのですが、これはどう読むべきかなぁ。「種子」の「種」には精子のニュアンスも感じますが、肉体の中にあらかじめ「幾千」も「眠っている」という点からは卵子のようにもとれます。

 男女問わず10代~20代半ばの主人公と仮定して読むと、今までほのかな恋しか知らなかった少年/少女が、初めて例えば手に触れるとかキスをするとかそういう経験を通して、自分にも肉体があり、この肉体を介して誰かと結ばれるのだ、ということを意識し始める、っていう雰囲気です。つまり、性交以前の恋ですね。

 ですが、20代後半以降~中年の主人公を想定した場合、なんつーか「今まで知らなかった快楽にハマってしまう私」みたいなレディコミ感を感じなくもない(読んだことないので想像でしかないですが…)。まあ、「発芽」なんだから若い方を採用したいところではありますが、ちょっと表現が露骨かなぁって気がしちゃいます。小林恭二

 

わたしは「発芽してゆく我の肉体」という措辞に、性の歓びに目覚めた肉体というニュアンスも読み取ったが、読みすぎだろうか。

 

と書いていますけど、いや、読みすぎではないだろうと。逆にそうとしか読めないのがむしろちょっと嫌だっていうか…。正直「性の歓び」まではいってほしくないんですよね、ここではさー。あくまで「発芽」であって「開花」じゃないんですから。まあ、私の勝手な考えにすぎませんが…。

 

 

約束は三時でしたね 微熱もつ発芽月(ジェルミナール)のきみの叛乱 (七福猫)

 

 「七福猫」の歌は、ちょっと意味を読むのが難しいです。単に私の文学的、歴史的教養のなさからなのですが…。

 「発芽月(ジェルミナール)」がそもそも分かんなくてググったところ、「ジェルミナール」はフランス革命暦の第7月にあたる芽月を意味する言葉で、エミール・ゾラの小説「ジェルミナール」では北フランスにおける炭鉱労働者のストライキを描いているそうです。

 私は、この歌の主人公が「きみの叛乱」に加担しようとしていて「約束は三時でしたね」って確認しているのだと思ったのですが、小林恭二は「三時に会うはずだった約束をきみが破った(叛乱)」と読んでいます。ちなみにジェルミナールは、革命暦の3月21、2日から30日間のことだそうです。ジャコバン憲法の施行と食糧を要求して民衆が国民公会に乱入した「ジェルミナール蜂起」という事件もあったそうで…。ほんと全然読めてなくて申し訳ないレベルですね…。

 小林恭二の解釈を読んでから見直すと、「三時ですよね」じゃなくて「でしたね」なんだから過ぎた約束ととった方が自然かもしれず、そう考えると「きみの叛乱」は私に対する叛乱ととった方が自然かもしれないと思いました。この場合、「きみ」を恋人と解釈すると、今まで従順だった恋人が意思を持つようになり急に逆らったととれますが、その場合「微熱」はどういうことで、「発芽」の原因となったのはなんなんだろう。

 もしかしたら「きみ」は子供かもしれないってちょっと思いました。思春期に差し掛かった子供がわけもなく「微熱」をもって「発芽」し、「叛乱」を起こすっていう。あんまりロマンチックな読み方じゃないですが…。

 

 

家々に釘の芽しずみ神御衣(かむみそ)のごとくひろがる桜花かな (ぐるぐる)

 

 「ぐるぐる」の歌は、街並みに桜が咲く春だと思います。木造一戸建てっていうよりもっと古代の感じですね。平安時代くらいの木でできた家を想像しました。その時代には「和釘」が使われていたとか。それらの「釘の芽」が「家にしずむ」、っていうのはどういうことなんだろう。「釘」は発芽するポテンシャルを持っているけれども伸びていかずに「家にしずんで」いるってことなのかな。そもそも釘によって家が成り立っているわけだから、「家」を「鎮めて」いるのかもしれない、と考えました。そうなるとちょっと巫女的な感じですよね。そこに、神御衣のように桜花が広がる、と。古代の春の祝福でしょうか。解釈を読んでみると、

 

 この「しずむ」、釘が家々を「鎮めている」つまり安護しているという意味もあれば、「沈んでいる」つまりいつか浮き出して釘の芽となり、家々を崩壊させるべき釘の頭が、今は沈んでいるという意味もある。更には「静める」つまりがんがんと金槌で打たれた日とうってかわって、静まりながら家を支えているというイメージもあろう。

(中略)

 「神御衣」は読んで字のごとし、神の召し物である。

 桜の花が神の召し物のごとくひろがっているのだという。

 わたしはこれまでこんな表現を見たことがない。おそらく千数百年を誇る短歌の歴史の中でも、初めての表現なのではないか。

(中略)

 わたしは両者を封印と開放の関係とみた。

 すなわち、「家々に釘の芽しずみ」は、家々に潜む魔や不安の種を、釘が鎮めているととる。

 それでもってその釘の鎮めのもと、華やかなる春の神が舞い降りてきて、桜花としての衣をひろげる、ととったのだ。

 

全然解釈されない歌も多数ある中で、この歌の解釈はすごいです。納得です。

 

 この歌に関する議論を読んで、けっこうショックでした。まず、小林恭二はこう書いています。

 

 わたしは一読して、背筋に寒いものが走った。そして「超えている」と思った。

 その感動は今も続いている。いや、体内に沈殿して、より大きなものになっていると言った方がいいかもしれない。

 

他の歌人も皆、

・もうこの歌にはお手上げだな。勝てないよ(萩原)

・今日のベストじゃない?(穂村)

・「釘の芽しずみ」の勝ちにいたしましょう(判者)

 

と、全く議論の余地なくこの歌がベストということで一致しています。

 

 なんでショックだったかというと、そこまで全然読めなかったからです。そんな衝撃受けなかったし、意味を読み取るのも苦労したし、だからこの解説読んで、あー私の読み方ってまだ全然ダメだなって思った。

 これって単に解釈がダメなのか、そもそも感性がダメなのかどっちなんだろう。なんにせよ、古代から近代に至るまでの短歌の素養というか、そういう素地がなければおそらく読み切れないし、他人の歌を解釈する足元にすらたどり着けないのではないかと、結構打ちのめされた一幕でした。この歌一読して「ああ、すごい」って感じる境地に達することがこの先あるんだろうか。なんか、誰か一人の感想だったら感じ方の違いって思えるけど、プロの歌人みんながそう感じている中でピンと来てないのがショックっていうか…。

 

 

 どの歌を選ぶかっていうのは、正直これに関してはもう私にはジャッジできません。先入観アリアリすぎて。。まあ、「ぐるぐる」なんだろうな、ってなっちゃう。もうこの解説読む前に抱いてた感想なんて忘れちゃったし…。

 「一郎次郎」は俵万智、「七福猫」は田中槐、「ぐるぐる」は大滝和子でした。

 

 

 これ読んでて改めて思ったことがあって。『現代短歌 そのこころみ』でも、『現代短歌最前線』でも穂村弘がデビュー当時に石川比呂志にボロクソ言われたことが書かれていて、『現代短歌最前線』では「穂村弘の登場は短歌的土壌のない若者への感性の解放だった」というようなことが総括されていました。しかし、今回の1日目「燕」の三枝昂之の歌に対する読みとか、今回の「今日のベスト」発言を読んでいると、穂村弘自身には「短歌的土壌がない」とはとても思えません。そのように人に思わせるのがうまいというか、やってることがはたから見てると簡単に見えるけどやってみると実は同じようにできないみたいなタイプの人なんだろうなーと思いました。

 それにしても今となってはもう大御所だから普通にそうだろうなって感じですけど、1996年だとどうだったんだろうなぁ。やっぱり天才みたいな感じだったのかな。

 

 ちなみにですが、「砂子屋書房」の「一首鑑賞」コーナーで澤村斉美がこの歌を引用していて、読んだのは高校生の時だったが、中でもこの一首は忘れがたい、と書いています。この歌のすばらしさが理解しきれてないのほんとに私だけかも…と思うとちょっと怖くなってしまった。

sunagoya.com

 

従順に間引きを待ちしバルコンの向日葵の芽も陽を追いており (yuifall)