山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
島田幸典
この傷は癒えるでしょうか 立てかけた傘の尖(さき)から水が沁み出す
この歌めっちゃ好きです。立てかけた傘の先から水が沁み出す、っていうのは見慣れた光景なのですが、それを見て「この傷は癒えるでしょうか」って言葉が出てくるかなぁ…。「水」は血のメタファーなのかなって思いましたが、この「傘」は痛みから守ってくれる何かなのだろうか、それとも傷つけるものとしての「傘の尖」なんだろうか。傷ついたのは自分なのかな、それとも別の誰かかな。傘の尖に突かれたとも、自分が突いたのだとも読めるような気がします。
先廻りして黄昏れているような小春日のNo news is good news(いや、なんでもないさ)!
女王の硬貨を握りバスを待つ High Street マクドナルド前
解説には
イギリス留学なども経験し40歳の若さで京大教授に就任するなど気鋭の若手政治学者という顔も持つ島田であるが、現実の生活の中に現れる微細な世界像の揺らぎをとても大切にしているようである。
とあります。イギリス留学時代の歌なのだろうか。本人はすごいインテリであるにも関わらず歌はさらっとして読みやすく、解説にも
島田は過度にペダンティックになることを避けているように思える。(中略)この気負いのなさは、ときに安心感と魅力も与えてくれるのである。
とあり、難しい言葉を使わなくても端正で硬質な美しい歌ってできるんだなーってちょっとどきどきしました。
ちなみに師である石田比呂志の歌も紹介されています。石田比呂志というとどうしても穂村弘の歌を「こんなものは歌ではない」みたいにけちょんけちょんにけなした人というイメージがあるのですが、解説によれば
島田の師である石田比呂志は「歌の鬼」とでも呼びたくなるようなエピソードにあふれる無頼派歌人
なのだそうです。引用歌は、
職業の欄に歌人と明記して犬にちんちんをさせているなり
拝啓、御無沙汰しましたが石田君河豚の毒にて頓死、敬具
みたいな感じです。解説によると
根底にあるのは人生の哀歓とユーモアである。深刻ぶる態度を巧妙に避け、情けなさはあっても愚痴っぽくはならないようにする工夫を凝らしている。(中略)石田が無頼のペーソスというキャラクターづくりによってナルシシズムを忌避したように、島田は過度にペダンティックになることを避けているように思える。
とあります。自分の辛さや生きづらさ(生きづらさは高すぎる知性によっても生じるでしょう)をひけらかさず、ナルシスティックにならないように、と石田比呂志が弟子にも説いた結果として島田幸典のスタイルがあるということなのかもしれません。
それにしても、時々石田比呂志が穂村弘の歌を痛烈に批判したエピソードを思い返しては、それは何故だったのだろう、と考えます。関川夏央の『現代短歌そのこころみ』にも詳しく書いてあって色々考えたのですが未だに腑に落ちていないところがあります。当時の穂村弘の「新しさ」が今では「ニューノーマル」化しているので、本当のところは理解しきれないのかもしれない。
焼け焦げたダイヤをLiebesträumeなんて、ぼくらもずるい大人になって (yuifall)