山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
佐々木六戈
「とてつもなき嘘を詠むべし」獺祭の百回忌まで少し間がある
角川短歌賞を2000年に受賞した時の連作のタイトルが「百回忌」、これは正岡子規のことだそうです。最近山田風太郎の『人間臨終図鑑』を読んでたのですが、正岡子規は35歳で亡くなっていて(数えとか満で多少の数え方の違いはあります)、肺結核、脊椎カリエスで1902年(明治35年)に壮絶な亡くなり方をしたそうです。
この「少し間がある」は、2002年までの二年間のことなんですね。この「百年忌」には「昭和史」「次の世紀」という言葉も詠み込まれており、「あれから百年こんなことがあった」というような連作みたいです。解説には
百年という時間そのものをテーマとしている。何世代もの物語が異様に濃い密度で短い紙幅のなかに落とし込まれる、マジック・リアリズム文学のような印象が残る歌である。
とあります。ガルシア・マルケスの『百年の孤独』みたいな?それから更に20年が経過し、2022年は没後120年ということになります。明治、大正、昭和、平成、令和とかけて、俳句も短歌も変わったんでしょうか。それとも120年程度ではその根底は変わらないのでしょうか。
「とてつもなき嘘」はフィクションのことで、当時はそういう概念が一般的ではなかったそうですが、でも「フィクション」という概念がなくても、文学作品としてフィクションは存在したはずですよね。短歌や俳句の中に「嘘を詠む」というのは一般的ではなかったんでしょうか。古典和歌なんかだと、「歌合」でおばあちゃんが恋愛の歌を詠むみたいなエピソードも散見されるし、実は近代よりも古代?の方が「嘘を詠む」ことへの抵抗は少なかったのかもなあ、って思ったりします。
明治から昭和初期あたりの文学者の人生を書いた本とか好きなのですが、本当にまるでフィクションみたいな感じですよね(笑)。嵐山光三郎や山田風太郎の本には実際に交流のあった作家についても書かれていて、ああー、本当に生きてた人なんだなーってなんかアホみたいに感じ入ってしまった。
正岡子規が喀血して辛かったとき夏目漱石に手紙を書いてたとか、河東碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」の「椿」は実は師匠正岡子規の吐く痰のことを言っているだとか、文豪同士がそうやって本当に生きて交流してたってエピソードすごい好きです。
人の名のアポカリプスを綴らむか鼠骨・石鼎・蛇骨・迢空
神は細部に宿りたまふを八つ裂きのスパラグモスの『草花帖』ならむ
解説には
原文は旧字体である。佐々木六戈の歌について語られるときよく使われる言葉は「ペダンティック」である。古今東西の文学に満遍なく通暁しており、引用やパロディも頻出する。挑戦的な匂いは全くなく、当たり前のような手つきで知識の泉から固有名詞を汲んでくる。
とあります。教養のある人ってこういう「ペダンティック」な引用や譬えが息をするように出てくるよなーと。
そういえばダニエル・T・マックスのノンフィクション『眠れない一族―食人の痕跡と殺人タンパクの謎』っていうプリオン病に関する本を読んでいて、致死性家族性不眠症の家系が出てくるのですが、「よくガルシア・マルケスの『百年の孤独』はこの病気を題材としている、と言われているけれど、実際に患者さんを目の当たりにして自分が連想したのはむしろエドガー・アラン・ポーの『ヴァルドマアル氏の病症の真相』であった」、というようなことが書かれてあって、同じものを見ても知識のあるなしで見えるものが全然違うんだろうと思いました。
てのひらは返すものとてそりやあないぜ Caesar salad 頬張る我に
森進一譯プラトンとあり ひよつとして、ひよつとして、あの
同じ「引用」系でもこんな笑える作品もあります。個人的に好きな歌は
訃報とはたとへば吾を追ひ抜いて遠離りゆく無燈自轉車
ほんたうにかなしむものはかなしみをつたへはしない そこに木がある
ですかね。特に下の歌なんかは、何か不幸なこと(有名人の死とか自然災害とか)があるとTwitterとかSNSで悲しみを表明しないといけないような風潮に対して直感的に嫌悪感があって(私が)、時代の状況を越えて共感しました。
まあ、「ほんたうにかなしむものはかなしみをつたへはしない」かは分かりませんが、「ほんとうにかなしむもの」が悲しみを伝えようが伝えまいがその人の勝手だろうと思っています。
占い師みたいな仕事をしていますリンカーン・ライムになれないままで (yuifall)