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小林恭二 『短歌パラダイス』感想 2-6「刑」

『短歌パラダイス』感想の注意書きおよび歌合一日目、二日目のルールはこちらです。

yuifall.hatenablog.com

 6番目は「刑」でした。

 

降りられない舞い上がれない宙吊りの刑に目をとず 風を嗅ぐまま (一郎次郎)

殺されにゆくため歩む永さもて朝刊に読む死刑執行 (七福猫)

恋人のカルテの上に蜘蛛たちの私刑(リンチ)のような横文字は散る (ぐるぐる)

 

 

降りられない舞い上がれない宙吊りの刑に目をとず 風を嗅ぐまま (一郎次郎)

 

 「一郎次郎」の歌は、普通に「宙ぶらりんの状況」というふうに読みました。宙ぶらりんといっても中途半端という意味合いではなくて、上からも下からも色々言われる中間管理職的な状況というか…。ダブルバインドな状況というか、要は苦しい宙ぶらりんです。奥村愛子の『万華鏡』ですね(笑)。

 

戻れない 進めない

想い乱れる恋は万華鏡

 

 でもこれは恋の歌には見えないなー。やっぱり中間管理職かな。部下からは不平不満を言われ、上司からは結果を出せとプレッシャーをかけられ、家族からはお金が必要だと言われ、2人の子供は私立に進学していて奥さんはパート、住宅ローンもあるわけですよ。

 もう何もかも嫌になって目を閉じるんだけど、この時の「風を嗅ぐまま」の風ってどんな匂いなんだろう。「刑」だから血の匂いかなーって思ったのですが、この歌からはそこまで凄惨な印象は受けません。ちょっと前の時代だったら煙草休憩中で煙草の匂いとか、今だったら何かなぁ。ていうか、「宙吊り」的な状況においてこの「風」は何のメタファーなんだろうか。爽やかに駆け抜けていくリフレッシュ系なの?それとも冷たい風に嬲られる系?後者だとすると、雪の匂いっていうのはどうかな。

 ちなみに小林恭二はタロットカードの「吊るされた男」のことではないか、と書いています。うーん、でも、タロットカードって解釈が難しいから一定の読みが成立しないような気も…。元来的な意味合いと現在でも違うみたいですし、そもそも絵の向きとか出方によっても変わっちゃうんですよね?(だから占いが成立するのでは?)だから、「吊るされた男」ではないんじゃないかなーって個人的には思ってます。あと、「男」かどうかも不明だし。

 

 

殺されにゆくため歩む永さもて朝刊に読む死刑執行 (七福猫)

 

 「七福猫」の歌は、テーマは重いですが内容は読みやすいと思いました。ある朝死刑の執行が決まり、死刑囚が独房から死刑執行までを歩く時間と同じ長さ分だけ、その記事を朝刊に読んでいる、と。これは多分、その記事への関心の有無によって朝刊に読む「長さ」は変わってくると思うのですが、「永さ」と表現していることから考えると、この人は死刑制度への関心がすごく深そうです。もはや「殺されにゆくため歩む永さ」とうのが、独房から歩む時間ではなく、死刑囚が生きてきた人生全てがここへ繋がっている、あるいは、その先祖から累々とそこに繋がっている、と読めそうな「永さ」です。これに関しては議論がすごく活発になったようで、

 

・「永さ」に「永」という字を宛てたのははっきり傷だと思う。この字の押しつけがましさがこの歌の可能性を殺いでいる(小池)

・でも傷に見えるものは裏返せば長所でもある。おしつけがましく書かなければ見えないものもあるのでは(荻原)

 

と書かれています。

 私も「永」という字には違和感があって、やっぱり、これを使われると「永遠」というか、「殺されにゆくため歩む永さ」っていう表現が、この死刑囚の先祖代々から連綿と続く血がまるでそこで「殺されにゆく」ために続いていたように見えるところが嫌だなって思った。そういう運命だった、っていう風に感じさせられるから。そうじゃなくて、この人は(冤罪とか色々死刑にまつわる問題はありますが)何か罪を犯した結果「死刑」になったから「殺されにゆく」んですよね。そこに「永遠性」みたいなものを持ち込まれたくない、というのは思います。

 

 

恋人のカルテの上に蜘蛛たちの私刑(リンチ)のような横文字は散る (ぐるぐる)

 

 「ぐるぐる」の歌は、なんだろうな。昔の医療ドラマみたいな感じ(笑)。「恋人のカルテ」っていう言葉から想像されるのは、おそらく自分も恋人もまだそんなに年齢高くないんじゃないか、若い恋人が病気なんじゃないか、ってことで、だから何か結核とか白血病とか、とにかく難病なんです。で、「横文字」は多分ラテン語かドイツ語ね。昭和の病院だわ。「蜘蛛たちの私刑のような」っていう記載は単に医者の字が汚いってことかなぁ、って思ってしまった(笑)。そもそもカルテに横文字を手書きな時点でやっぱり昭和の病院ですね。でもなー、この歌合、1996年だし、まだ電子カルテじゃないか。てことはそんなセピア色な感じじゃないのかな。単純に、なんか読めないけど多分不穏な感じのする言葉がカルテにのたうち回ってる、ってことかなぁと考えました。

 小林恭二は最後の「散る」に疑問を呈しています。集団で行う「私刑」と「散る」は言葉の志向するベクトルが違う、と。確かにそうか。私、勝手な脳内イメージで、リンチにあった後の蜘蛛の足がもげてばらばら散らばってる様子を想像してました。でも「私刑のような横文字」なんだから、「散る」はおかしいのかもしれません。

 

 

 この回で面白かったのは、歌の解釈は誰のものか、という疑問がさしはさまれていた点です。この回、「七福猫」の歌の作者が自分の歌を「読む」というシーンがあったみたいなんです。まあ、1日目と違って2日目は匿名で歌が出されるので仮に全員で議論すればそういうこともあり得ますが、今回作者が「これは死刑執行に反対する歌である」と述べて、敵チームの反論にあっています。

 

・死刑囚が、死刑を執行する場所まで自ら歩いていく。その短い時間に自分の一生が凝縮される。わたしたちが朝刊で「死刑が執行されました」という記事を読む時、死刑囚の感情は全く反映されない。せめて死刑囚が、死刑という理不尽を感じていた時間の長さだけでも共有しようという気持ちである(作者)

 

これに対し、

 

・死刑に賛成とか反対とか、そんなメッセージ的に読むべき歌だとは思わない。そんなことはどこにも書いていない。この歌は殺されにゆく歩みと、死刑執行の記事を読む重さをかさねあわせた歌としてむしろ厳粛に読まねばならない(小池)

・妙な色付けをするとむしろこの歌の価値は落ちる(奥村)

 

と、(実際は誰が作者か知らないとはいえ)作者自身の解釈に対して真向から反対した「読み」が展開されています。これすごく面白いなと思って。小林恭二も、

 

 もし作品のみならず、解釈までもが作者のものであるならば、読者の主体性はどこにあるのだろう。

 わたしは読みに関しては、特権的な立場の人間は存在しないし、存在すべきでもないと考える。

 

と書いています。

 

 作品は作者のものでも、解釈は読者のものであると。まあそうだよなって思う反面、荻原裕幸が言うように「永さ」の一種「おしつけがましい」書き方によって死刑執行に関するわだかまりみたいなものも感じなくもないし、歌の中で何かを主張しているのならそう読まれたいというのもあるだろうなーと。

 あとはこの場合「題詠」で一首ごとのバトルですが、連作の中から一首だけ抜き出されて解釈されることに関してはどう思うのかなーとか、色々考えるところはあります。ですが、こういう、「作者」の意思をも超えた読み、解釈、議論って読んでいてめちゃくちゃ面白いしけっこう興奮しました(笑)。

 

 どの歌が勝ちかって言われると難しいです。解釈はともかく読みやすいのはやっぱり「七福猫」かなと思います。でも、「一郎次郎」の歌もわりと好きだし、「ぐるぐる」の歌は塚本邦雄穂村弘のハイブリッド感があって面白いなーと。ここは、議論が盛り上がった「七福猫」に一票かなー。

 「一郎次郎」は十時由紀子(岩波の人)、「七福猫」は田中槐、「ぐるぐる」は穂村弘でした。これ、作者を知っちゃうと「一郎次郎」に入れたくなるよね(笑)。なんとプロ歌人の歌じゃなかったなんて、びっくりです。

 

 それにしても「刑」かぁ…。「死刑」「私刑」はぱっと思い浮かぶし、あと「流刑」とかも思い浮かんだけど、そこからイメージを広げようとする前に「愛の流刑地」が思い浮かんじゃってもう嫌になりました(笑)。

 

 

Just shoot for the star

その星を墜とせばどんな刑ですか例えばハムラビ法典ならば (yuifall)