山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
岸野亜紗子
海面かさうでないかの境目のつねに正しき岸壁は見ゆ
この歌が一読して目に留まりました。いつ詠まれた歌なんだろうか。「つねに正しき」の部分は、単純に情景を詠った歌なのか、それとも震災を経て、「つねに正しくはない」ことを知ったうえでアイロニーとして詠っているのか、どっちなんだろうなーと思いました。海面は絶え間なく変動するし、つねにそこにあるわけではないから、やはり「つねに正しくはない」と読みたいなと思うのですが。
解説に
ふせぐもの何もなければ雨の日の毛をむしられたような海面
蓋をして煮ればこんなにやはらかく白き手羽先 にげばなどない
といった歌について
「背丈の釘」や「手羽先」のメタファー、「毛をむしられたような」という直喩、いずれもしびれるほどうまい。
と書かれており、とにかく比喩表現が多彩で心惹かれます。特に「手羽先」の歌にはどきっとしました。圧力鍋の中を覗き込みながら、手羽先を見て「にげばなどない」と思うのか…。
確かに手羽先って形がはっきりしているから、なんとなく悲しい感じもしますね。本来飛ぶための部分なわけですし。羽をむしられて肉のパーツに分けられてパックで売られてついにここまで来たか…みたいな…。実は「手羽先」になった鶏はおそらく生まれた時から「にげばなど」なかったはずで、それを思うとよりぞくっとします。
昔中国に行ったとき、スープの中にけっこう原形をとどめた鶏の一部が入っていてちょっと「うわあ」ってなったことをなんとなく思い出しました。。なんであの時あんなにうわあ、ってなったのか、今となっては記憶がおぼろげです。鶏の丸焼きだって平気で食べられるのに。
この街の夜のひかりは地上にはをさまりきらぬパンのパンくづ
これも、比喩表現が面白いです。上から俯瞰してみるまなざしなのかな。他の歌を読んでみると、「山手線」「豊洲」とか出てくるので東京な感じがします。
たぷたぷと夜空の腫れてゐるあたり山手線に触れてゐる街
なんて歌もあります。
解説には
短歌のなかに他者が登場しないことを、自己中心性のあらわれと単純に判断するのは間違いの可能性がある。他者性は生きた人間の中にだけあるものではなく、都市や風景の中にも内包されている。岸野の短歌は、そのことに気付かせてくれるような歌である。
とあります。そうか、と思って引用されている歌を見てみると、バイト先で詠んだと思われる
社員用休憩室の昼下がり母たちと娘たち棲み分ける
と、
はるぢよをんいたるところに揺れてゐてあなたの良さをわかつてくれる
以外には人を詠んだ歌って見当たらないし、これらの歌もある意味風景画な感じもします。この「あなた」は、特定の誰かという感じではないですし…。
でも、こういう、「私性」がよく分からない歌も好きです。歌の裏を読まなくてもいいっていう安心感があるからかな。
座面狭き備品の椅子に週5日1日8時間を過ごしおり (yuifall)