山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
大林明彦
盗みたきもののいろいろ 石けりの輪のようなきみのたとえばSpectacles
1946年生まれの人が詠んでいる口語短歌です。解説には「おさなさ」がキーワードである、と書かれています。口語によって生じる幼い印象に加え、口語短歌そのものがまだ「おさない」のだ、という思いではないか、と。第一歌集「きみはねむれるか」は1975年に出ているそうです。
きみのめをみつめていればくものすのXとうめいにひかりていたり
黄に熟れし畑の径よ ゆうべ暗くおさなきかぜとかぜとの出逢い
など、確かに「おさない」イメージですが、これは口語というよりも平仮名の使い方のような気もします。
君の目を見詰めていれば蜘蛛の巣のX透明に光りていたり
にするとだいぶイメージが変わりますよね。あと、「盗みたき」とか「いたり」みたいな表現って完全な口語とは言えないし、まだ口語短歌が「おさない」頃の歌、といえばそうなのかもしれません。解説には
「きみはねむれるか」は口語短歌のエポックの一つとして残りうる歌集だろう。
とあります。1975年に出たこの歌集が口語短歌を語る上でどのような位置にいるのか知りたくなります(自分で論じるのはハードル高すぎる…)。個人的には「言文一致」とか「完全口語」とかに拘ることがそれほど好きじゃないので、このくらいの文体はとても好みですが…。というか、全く同じ言葉でも口から発されたのを聞くのと文字で読むのでは印象が全然違うことがあるので、「言文一致」はむしろ「言」と「文」の印象の不一致を招くのではないかと常々思っている。
きみが息ぼくがいきしてかけあがるゆうべ樹林のあかき さかみち
この歌好きです。「きみ」は恋人のような気もするし兄弟のような、友達のような気もする。一緒にさかみちを駆けあがって、荒い呼吸をして、ふっと笑うの。
われより若く寡黙な父よ 主戦論推すにはあらで海に散りしか
後半は父親や戦争の歌が紹介されます。「戦死した父」という存在が描かれるのですが、これは本当の「父」なんだろうか。1946年生まれなのだから、父親が戦死していたら父親の顔を知らなかったのではないかと想像されます。ですが一方で
忘るなよ 弟 かの日ぼくたちが学徒であれば海に散りしを
のような歌もあり、「弟」の存在が示唆されます。「戦死した父」か「弟」のどちらかが架空の存在なのか、それとも「弟」と自分は父親が違うのだろうか?でもこの歌からは、父親違いの兄弟という感じはしません。双子の弟なのか?それとも、この「弟」は戦後生まれの男性たちへの呼びかけと取るのがよいのでしょうか。たまたま戦後に生まれたから死なずに済んだのだ(「父」や「兄」は海に散ったのだ)、と。
その無垢に罰が似合うね いたずらなあなたの頬に泡の烙印 (yuifall)