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ぼくの短歌ノート-「我の歌」 感想

講談社 穂村弘 著 「ぼくの短歌ノート」 感想の注意書きです。

 

yuifall.hatenablog.com

 我の歌

 

 これは、ちょっと難しいです。多分私に短歌の歴史とかそういう文化的な素養がないからだと思うんですが。以下引用ですが、

 

 現代短歌の中には特異的めいたモチーフがふたつあると思う。ひとつは歌の歌。短歌そのものについて詠ったメタ的な構造の作品である。もうひとつは我の歌。私小説という言葉があるが、近代以降の短歌は少数の例外を除いて基本的に全てが私短歌なのだ。普通に書けば我が主語だと思われる一人称の詩型。

 

引用終わり。

 

 うーん、「歌の歌」と「我の歌」かぁ。

 私短歌という概念がよく分からないなぁ。。逆に、「現代短歌」ではない昔の歌って、「我」が主語ではなかったということなんだろうか。例えば(言うまでもなく百人一首および万葉集からの引用ですが)

 

ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは

 

とか

 

石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも

 

みたいな歌は「私短歌」には分類されないということだろうか。そして、「近代以降の短歌は少数の例外を除いて基本的に全て我が主語」ってどういうことなんだろう…。自分を主人公に設定して詠わなくても(フィクションであっても)、短歌には自分が滲み出るってことかな。それとも、論じられてるのはそういう意味じゃないのかな。自分自身でなくても誰か「人間」が主人公の一人称の歌=「私短歌」ってこと?

 

砂時計のなかを流れているものはすべてこまかい砂時計である (笹井宏之)

 

とか、

 

大学をやめたマサルは空色の建設現場で働きだした (千葉聡)

 

とかも、自分の気持ちだからカテゴリー的に私短歌ということなのだろうか。「わたし」がそう感じてるからってこと?「あなた」とか「だれか」が感じてるのを歌にする、っていうのが私短歌じゃない、ってことなのかな。全然概念が理解できてないな。

 ちょっと難しくて分からなかったのですが、まあ、文学を学んでいるわけではないので(笑)、もっとカジュアルに感想を書きたいと思います(笑)。

 

 といってもこのテーマもあまり個人的には心惹かれません…。なんでかな。単に「我」というテーマに心惹かれないだけかも。

 

僕は今一人千役こなしつつ僕の二代目オーディション中 (渡辺崇晴)

 

通用門いでて岡井隆氏がおもむろにわれにもどる身ぶるひ (岡井隆)

 

祖父・父・我・我・息子・孫、唱うれば「我」という語の思わぬ軽さ (佐佐木幸綱)

 

これら全部、あー、うん。って思ったくらいだったもん…。人って色んな顔を持ってて、祖先から子孫まで繋がってて、大河の一滴にすぎず、うん、そうですよね、と思いました。

 作品の問題ではなく、多分私自身が「私短歌」という概念が理解できてないからうまく読めてないのかなと思います。

 

 

アルビノの蛇でも四葉のクローバーでもなくぼくはシャーペンの芯 (yuifall)