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ぼくの短歌ノート-「ミクロの世界 空間編」 感想

講談社 穂村弘 著 「ぼくの短歌ノート」 感想の注意書きです。

yuifall.hatenablog.com

ミクロの世界 空間編

 

 この「ミクロ」シリーズ(今回の「空間」と次回の「時間」)は、着眼点としてはすごく面白い!と思うのですけど、解説についてはどうも承服しかねます(笑)。一体何をもってミクロ≒どうでもいい、とみなすのか?

 

食事中むせてご飯が飛びましたまだ原型をとどめてました (渡辺崇晴)

 

なんか、そもそも米粒一個ってミリ単位ででかいじゃん(笑)。

 いやー、しかも、私、米粒のことよく考えるんですよね。こうやって一粒飛んだやつとか、茶わんのふちにこびりついてるやつとか、食洗器の中で干乾びてるやつとか見ると、稲穂の映像がうわっと脳内に浮かぶんですよ…。でも別に「米粒1個には7人の神様がいるんだから無駄にするな」的な意味合いじゃなくて、米粒の運命っつーか、田んぼにいる間に鳥に食べられたり、収穫前に落下したり、脱穀に失敗したり、米びつに移す際に床に落ちたり、人間に嚙み潰されたり、食べ残されて流されたり、もしくは形がよかったりすると来期の種に使われたりするじゃないですか。で、別に米粒的にはどの運命であっても等価だよなって。

 こういうことって多かれ少なかれ、そして対象は米粒でないかもしれないけど、誰でもある程度は考えるんじゃないかな?『いっぽんの鉛筆の向こうに』(谷川俊太郎)って本あるけど、米粒だろうが鉛筆の芯だろうが1枚のティッシュだろうが、我々の手元に来るまでにはドラマがあるわけで。どうでもいいことなんかないと思うよ!

 でもこんな短歌は確かに作れないので、作者とそれに注目した著者はすごいなーとも思います。

 

黒ゴマの一つ浮きたる牛乳というもの見たり夜のテーブルに (花山多佳子)

 

 これに関しては、解説には

 

<私>はその体験を誰にも語らないだろう。

 

とありましたが、果たしてそうだろうか?私の妄想世界では、この人の家族の誰かが牛乳と一緒にアンパン食べたんですよ。アンパンって上に黒ゴマのってるじゃん。で、アンパンを牛乳で流し込んだ際に牛乳に黒ゴマが混入し、さらにはその犯人は牛乳を飲み残した上に片付けずにその場を立ち去ったと。だから私がこの人なら、「誰にも語らない」どころかめっちゃ切れるね(笑)。一家の母ならなんとなく誰が犯人か見当がついてるだろうし、そいつのところに行って、「飲み残しの牛乳置きっぱなしにすんな!片付けろ!せめて中身を流して水ですすいでシンクに置いておけ!」とブチ切れますね!

 ちなみにこの歌は『短歌タイムカプセル』でもこの人の代表歌の一つとして取り上げられているので、みなさん何か感じるところがあるようです。この静物画っぽい感じは何となく俳句を彷彿とさせますね。だから「誰にも語らない」というか、しんとしたイメージなのかな。

 まあ上に散々妄想書きましたけど、もしかしたら本当にこの人は「誰にも語らなかった」んじゃないかなって気もしてます。なんか、「置きっぱなしにしやがって!」みたいな勢いが感じられない歌なんだもん。だけどそれではこの牛乳はどうなったんだろう、って思う。人の飲み残しを黙って片付けたんだろうか。それとも、犯人が片付けるまでそのままほっといたんだろうか。だってそこから消えちゃうわけじゃないんだから。やっぱり、「誰にも語らないだろう」っていうのは男性の発想な気がするな。男性っていうか、主体的に家事に関わってない人の発想な気がする。飲み残しの牛乳をテーブルに置いておいて朝になれば片付いてるって思ってる人の発想というか。

 まあなんにせよ、夜のテーブルに黒ゴマ1個浮いてる牛乳を見た、ってのが詩になるのがすごいなって思うし、みんなそれに感じ入るからこそこうやって色々語りたくなるのかなと思いました。

 

髪の毛がいっぽん口に飛び込んだだけで世界はこんなにも嫌 (穂村弘

 

 は、比較的分かりやすいですね。髪の毛が口に入るとか、睫毛が目に入るとか、コンタクトがずれるとか、小石が靴に入るとか、ささいなことで人の世界はがらりと違っちゃいますもんね。

 

 

つま先に石のかけらを潜ませて いたい、ほんとはそこではなくて (yuifall)