講談社 穂村弘 著 「ぼくの短歌ノート」 感想の注意書きです。
感謝と肯定
これはある意味「素直」とか「身も蓋もない」の系列ですね。
座るとき立ち上がるとき歩くとき ありがとう足そして重力 (東直子)
すべての今にイエスを告げて水仙の葉のようなその髪のあかるさ (加藤治郎)
解説には
歌人の多くは資質的に世界を丸ごと受容する力が強く、塚本邦雄や葛原妙子といった少数の例外を除いて、それに対して異議申し立てをする感覚が稀薄だと思う。
とありました。
そうなんかなぁ。いや、もちろん私ごときが反論できるほどの材料はないのは分かってるんですけど。確かに雪舟えまの歌とか全肯定系ですごい可愛いなーって思うけど、歌人の多くが世界にありがとうな感じかと言われると分からん…。なんかピンと来ないです。そういう歌の方が作るの難しそうな気がするし。。悲しい…よりも、嬉しい!ありがとう!な歌で傑作作るのって大変そうじゃないですかね?
文豪たちの破天荒な生活を書いた本が好きなのですが、その中でも特に嵐山光三郎の『文人悪食』が好きで、その斎藤茂吉の章で、以下引用
茂吉は青山脳病院院長であり、精神科医として日本を代表する権威であった。社会的体面は当然ながら必要である。日本の歌人は『万葉集』の時代から社会的敗者の伝統があり、敗者でない人は、みな不幸になりたがるという傾向がある。そんな文学風土のなかで茂吉が最後まで崩れなかったことは、むしろ奇蹟といっていい。(中略)歌人としてぎりぎりの断崖に立っても、医者としての茂吉は敢然として自立して、乱れるところはなかった。
とあります。一方で石川啄木なんかはそもそも私生活からしてしっちゃかめっちゃかなのですが(笑)、なんか、文学者とか詩人とか歌人とかとにかくアーティストってどこか不幸っぽいところがあるのが売りなんじゃないのかなーみたいな…(←漠然とした感想)。モーツァルトとか一握りの人だけじゃないの?僕天才!ハッピー!で一生を終えられるのって(笑)。イケメンでモテモテだったリストも晩年は鬱病だったらしいし…。
(※とか書きましたけど、モーツアルト、晩年はわりと不幸でした。。一生ハッピーだったのは画家のルーベンスですね)
ていうか前回の「システムへの抵抗」で、「裡なる死こそが詩の故郷」「システムは裡なる死をも同時に殺してしまう」と言っているのに、今回「歌人は資質的に世界を丸ごと受容する力が強い」というのはなんだか矛盾があるような…。てことはシステムをも受容してしまうの?そうなると「裡なる死」なるものは排除されてしまうけどそれはいいの?
私見ですけど、やっぱり幸せよりも不幸の方が芸術のネタにはしやすく、かつその不幸を弄んでどこか戯画化したところに共感が生まれるのではないだろうか。そして、ここで取り上げられているような「感謝と肯定」は、灰色の中で際立つ輝きだからこそ掬い上げたい何かなのではないだろうか。加藤治郎の歌なんて、不意に彼女の髪が太陽にきらめいて見えて、ああこの瞬間だけは全てを肯定したい、という刹那の輝きだったからこそ価値のある「今」、ということではないかと思われます。
ちなみにですけど、医者として権威だった斎藤茂吉が天然短歌作ってて、人間のクズの石川啄木が「われ泣きぬれて 蟹とたはむる」なのが面白いよなって思いました。この歌、上述の『文人悪食』では、
だが、なに、泣きたいのは宮崎郁雨と金田一京介のほうだろう。
と突っ込まれてて笑った。啄木については、
啄木の歌は、誰にでもある実生活の挫折した隙間に、殺気をもって斬りこむのだ。誇張された想念は、ここでは圧倒的な力を発揮する。啄木はハイカラである。辛酸をなめつくす貧困のなかからは、啄木のようなハイカラな歌は生まれない。(中略)啄木の分不相応な贅沢と傲慢、あるいは過度の貧乏幻視は、あたかも言葉の化学反応のように結合して、透明の結晶となった。
と書かれています。この本めっちゃ面白いのでお勧めです(笑)。
50メートルプールに落としたコンタクト片目拾ってくれてありがとう (yuifall)