講談社 穂村 弘著 「ぼくの短歌ノート」 感想の注意書きです。
ちやらちやらてふてふ
旧仮名遣いの歌についてです。冒頭で
旧かながさまになりしは福田恆存まで丸谷でさへもちゃらちゃらくさく (小池光)
とあって、現存の全ての作家の旧かななどちゃらくせえや、と言われています(笑)。この人は昭和22年生まれだそうなので、解説にもあるように、やっぱり戦後生まれじゃダメってことかな?
解説には、この歌をアイロニーとして読みながらも、そもそも旧かなが
懐かしいとか呪わしいとかいうよりも、はなからエキゾチックなものに思えてしまう。
外国人の着物姿のようなもので、さまになるとかならないとかいう次元では読むことができないものなのだろう。
と書かれています。
私は「外国人の着物姿」とまでは思わないけど、「日本人の着物姿」くらいには思うかなー。普段着ではなくて、でもたまに愛好家とか普段使いしてる人たちもいて、ちょっとでも着方変だったりするといわゆる「着物警察」(笑)のおばさま方に取り囲まれてああでもないこうでもないって文句付けられるみたいな(笑)。で、実はPARCOみたいなショッピングビルにはカジュアル和装の店が入っててそういうファッションの一部として着てる子たちもいるし、着物を着ないまでも和小物は取り入れたりとか(簪とかね)、そういう距離感な気がします。だから真面目に向き合ってる人たちと、カジュアルに取り入れてる人たちがいるみたいなさ。
でも、旧かなを使うことそのものを目的としている歌っていうのもなー。
まつちや入りかすていら切り分けようぞ つつぷしてゐるこころを起こし (東直子)
とか、旧かなで遊んでるな、かわいいな、って思う反面、それ以上の感想が思い当らないので、やっぱり着物を着るのでも着物を着てみたいわ♡じゃなくて、季節や場面による布地や柄の選び方、合わせる帯の色や結び方、帯留めの色、合わせる小物などなど色々知って遊ばないとあらー、いいわねーとはならないのかもと思いました(笑)。
みぞをちをぶん殴られてちへど吐くさうかこひつてやんきゐなのか (yuifall)