左右社 出版 山田航編著 「桜前線開架宣言 Born after 1970 現代短歌日本代表」 感想の注意書きです。
吉岡太朗②
後半は関西弁の「わし」が主人公になっていて、この人自身の介護経験がもとになった作品のようです。
ぬめっとるまなこに指をさし入れてゆびが魚をつきやぶるまで
それでもわしは叫ぶんやから無い口のかわりに穴からひり出している
ようわからんひとがしっこをするとこを見にきてしかもようほめる
などを読んでて、すごい臨場感だなぁと感動しました。「筋ジス」「義足」「病院」「軟便」などの言葉が使われていて、どれも現場の生々しい空気感が感じられます。給食の残飯とか患者さんの糞便の匂いまで伝わってきそうな臨場感で、これをね、歌にするってすごいなって単純に感動した。
愛とか恋とか言ってても人間って内臓があるし、アイドルもトイレ行くし、自分の面倒見られなくなったら誰かに頼るしかないし、死んだら腐って蛆が湧くよなって。
ただ、解説にあるように、
その中にこそむしろ人間の真実があることを信じる
というわけじゃなくて、それも真実のうちの一つだよ、ってことかなぁと思います。
1961年の本ですけど、小田実の『何でも見てやろう』の一節が好きで、以下引用ですが、
つまり外国へ行って、いや、べつに行かなくったってよろしい、この日本国のことでもよい、めいめいの趣味、主張、主義にしたがって、上品なところ、きれいなところ、立派なところばかり見る、あるいは逆に、下品なところ、汚いところ、要するに共同便所のようなところばかり見てくる、私はそんなことはきらいである。世の旅行者というものはたいていその二つ、上品立派組と共同便所組のどちらかに所属してしまうようであるが、これはどうもやはり困りものではないのか。ひとつの社会というやつは、どこだって、美術館だけでできあがっているのでもなければ、どこへ行っても共同便所ばかりというようなこともないのである。美術館もあれば共同便所もあり、山の手もあればスラム街もあり、国会議事堂もあればキ××イ病院もあり、美人もいればシワクチャの婆ちゃんもおり、総理大臣もいればオ××さんもいるのである。それが「社会」というものであろう。
引用終わり(一部、現代においては不適切な表現かなーと思い自己判断で伏字にしました)。
私もそう思うんだよなー。愛vs糞便ってわけじゃなく、両方とも同時に真実なんだと思います。
人間の皮剥ぎながら「スエードとヌバックの違い」聞かれてる(今) (yuifall)
ラテックス製の手袋つけないで挽肉に指めり込ませます (yuifall)