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吉田悠軌『ジャパン・ホラーの現在地』 感想2

 不定期読書感想文。前回の続きです。

吉田悠軌『ジャパン・ホラーの現在地』 感想1

 

 次の澤村伊智と飯倉義之との対談「汲めども尽きぬ『民俗ホラー』という土壌」がとても面白かったです。澤村伊智はホラー作家で、飯倉義之は國學院大學教授だそうです。特に飯倉義之の発言がとても興味深く、アカデミアの視点が分かって面白いし、この特集に教授を起用したセンスもすごく好きです。ここちょっと長く引用しながら感想書きます。ただし中略もかなり挟むので、ご興味ある方はぜひ買って全文読んでいただきたいです。

 

 最初に「民俗ホラー」の成り立ちが語られます。いわゆる「因習村」モノはイギリスでも大人気で、「Folk Horror」というカテゴリーがあるのだとか。確かにイギリスは元祖幽霊の国だもんね。田舎も城も廃墟も多そうですしね。

 

(澤村)世間のこういうジャンルが好きな人が言う「土俗的な作品」って、角川が仕掛けた横溝正史映画に端を発すると考えていいんじゃないですかね。(中略)正確には(*横溝正史作品そのものではなく)横溝正史原作の一連の映画が、土俗的なものってこうなんだよと知らしめた感じなので。

(吉田)70年代の角川が仕掛けた横溝正史の再ブームですね。ちょうど国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンなども相まって、これが田舎です、古き良き日本です、我々が忘れた日本を再発見しましょう……みたいな機運が盛り上がりましたね。(中略)

(飯倉)横溝正史は、単に執筆当時の現在を書いているだけであって、ことさらに古い田舎を書いているわけじゃないんですよね。70年代になって小説内の「現実」と社会の「現実」がずれたことによって、横溝の小説世界が田舎の因習ホラーになってしまうんですよね。

 実は民俗学の理解のされ方もこれと同じです。柳田國男民俗学は「眼前の事実」を見る学問として始まりますが、その時の「眼前の事実」とは1930年代の「現実」なんですよね。(中略)ただ50年代、60年代はそこまでずれがなかったんですね。(中略)

 でも70年代に入っていくと決定的にずれてきてしまう。農村でも子どもたちは家でテーブルと椅子でテレビアニメを見ている生活をしていることは無視して、民俗学は「囲炉裏端の昔話がどうの」とかばかり述べているんです。そうなってきたとき、「昔は囲炉裏で暮らしていた日本」というのが、私たちには全く想像もつかない、現在の生活水準と断絶した事象として改めて発見される。そんな生活が世界のどこかにまだ残されているような、取り残されて隔絶された田舎……みたいなイメージが出てくるのだと思います。そこに角川映画は上手く乗っかっていった。それが現在まで続く土俗ホラー、民俗ホラーの起点になっているところだと思いますね。

(中略)

(飯倉)ディスカバー・ジャパンや民話ブームと同時期に、いわば裏面を走っているのがオカルトブームなので、これは連動しているんですよね。

(吉田)すごく雑な説明ですけど、日本では高度経済成長が一息ついてオイルショックで一回立ち止まろうってことになり、現実的な利益よりも「ここではないどこか」の方に視点が向いていく。それはフォーク・ホラーの方も全く一緒で。イギリスもやっぱり70年代にもはやグレート・ブリテンではなくなってしまい、じゃあ我々の過去はなんだったんだろうと見直していく中でフォーク・ホラーが生まれた。(中略)

(飯倉)(中略)日本におけるオカルトブームとディスカバー・ジャパンの原動力は、逃避行動なのではと思っています。当時オイルショックに端を発して公害とか交通戦争とか過疎とか自然破壊とか……。東京湾がヘドロでどろどろだった時期で、世界的にもノストラダムスの大予言が流行った時期でもあります。このままいくと核戦争が起きるか何かして、世界が滅びて人類が終わるっていう感覚がすごく流行るんですよね。

 70年代は特に「人類はどう終わるのか」っていう予測がいっぱい書かれて、「このままいくと人口増加が食料増産を追い越して世界的な飢餓になる」とか「石油が枯渇して文明が滅びる」とか「アマゾンが刈り尽くされて酸素がなくなり工場で作るものになる」とか。

(中略)

(飯倉)大局的にはオイルショックや米ソの睨み合いでいつ水爆が落ちるか、身近なところでは光化学スモッグでばたばた子どもが倒れる、ダンプカーに子どもがはねられる、受験戦争が……と様々な閉塞感があったんですよね。そこに「昔はよかった」が出てくるのが民話ブームなんです。物質的には何もなかったけど、人間としての豊かさがあったあの頃に戻りたい、という憧れ。

 一方、まだ我々に可能性があると考えたい人はオカルトに走ったんじゃないかと思うんです。宇宙から助けが来るかもしれない、人間に超能力が目覚めて物質文明から離れられるかもしれない、地球はまだまだ広くてネッシーとかツチノコとかいるかもしれない……。

 それらのいいとこ取りなのか悪いとこ取りなのか、「昔は怖かった」を出す民俗ホラーというジャンルがその合間に出てきたのかな、と。

 

 民俗ホラーの成り立ちの考察がとても興味深いと思いました。調べてみると横溝正史明治34年(1902年)生まれだそうで、『獄門島』『八つ墓村』などの金田一シリーズはいずれも40年代の作品のようです。小説の舞台そのものも金田一の復員直後ということなので40年代半ばでしょうか。とすると70年はそこからまだ30年も経っていないので、例えば現在の2025年から振り返ると2000年頃ということになりそれほどの文化の断絶があるイメージではないのですが(2000年は携帯電話もネットに繋がるPCもコンビニもあったし…)、やはり戦後の高度経済成長もあって40年代と70年代にはこちらが想像する以上の断絶があるのかもしれない。近代と現代の間の深い溝というか…。あと「当時の若者たちに大ウケした」と書いてあるので、40年代半ばの空気をリアルでは知らない世代に受けたということなのかもしれません。Z世代の平成リバイバルみたいなもんか。

 面白いのは、「古き良き時代」を懐かしむ空気っていつの時代にもあったんだなと。70年代に“世界の終わり”ブームがあって戦後の焼け野原が懐かしがられていたことには驚きました。確かに石牟礼道子の『苦海浄土』が1969年の作品なので、この頃は公害でひどい環境だったのかもしれない。子どもはたくさんいて扱いは適当だっただろうし、安保闘争もあっただろうし、ただでさえ団塊の世代で人が多いのに大学受験がなくなったりして当時の受験戦争はヤバそうです。今は少子化で大変だけど、多ければそれはそれで不安な時代だったんだなと思う。このあたりの相対化が興味深く感じられました。

 

 その後更に、90年代の「ホラー・ジャパネスク」に話が繋がっていきます。

 

(澤村)それ(*京極夏彦のような伝奇ミステリーからミステリー要素の抜けたホラー作品)は多分、東雅夫さんが「ホラー・ジャパネスク」と形容するような作品群のことをいうんじゃないかと思うんですけど。坂東眞砂子死国』とか『狗神』とかあの辺ですかね。

(吉田)京極夏彦姑獲鳥の夏』が94年にあり、ちょうど小野不由美『東亰異聞』も94年。小池真理子『墓地を見おろす家』はもう少し早い88年ですが。

(中略)

(吉田)あとは例えば小野不由美屍鬼』。スティーブン・キング呪われた町』のオマージュですが、あれもやっぱりドロッとした閉鎖的な村のホラー。

(澤村)モダンホラーの手法で書かれてはいるけれども、土俗性みたいなものを加えることで、我が国でモダンホラーをやるというのはこういうことかっている成果が示された。

(吉田)『屍鬼』が始まったのが98年で、99年にはもう岩井志麻子ぼっけえ、きょうてえ』が日本ホラー大賞受賞ですね。あのインパクトもかなり大きかった。

(澤村)だと思いますね。『ぼっけえ、きょうてえ』はその辺をわかりやすく提示したというか、作者の岩井さんは岡山出身で、それを積極的にアピールされていたので。

(吉田)今、民俗ホラーのどこか閉鎖的な村っていうとたいてい、岡山県になりますからね(笑)。

(澤村)津山三十人殺し事件もあるし。(中略)

 

 これをきっかけに『ぼっけえ、きょうてえ』買って読みましたが(その時の感想にも書いたけど)、これは明治時代の貧しい田舎の悲惨な現実だとは思いましたが、岡山の土着のものかどうかはちょっと分からない。いわゆる「土俗ホラー」的なものってちょくちょくこういう風に感じることあるんですよね。場所はいわゆる「ここではないどこか」「どこでもないどこか」であって、どこか閉鎖的な場所が設定してあればどこでもいいのではないか。そこに伝わる伝説とか迷信とかをちょっとアレンジすればいいわけで、作者がある土地を選定した理由はあっても、読者がそれに拘る理由はないのではないか。そりゃまあ、ヒグマとか出てきたら北海道だなって思いますけど…。あと部落問題みたいな複雑な歴史が背景にあれば、その土地ではくてはならないと思って読みますが。その辺の消化の仕方がいまいちよく分からないというのはあります。作者が設定した土地を特異的なものとして理解すべきなのか、「とりあえずどこかの田舎」と理解していてもいいのか。

 ここでさらに、「民俗ホラーは都会から田舎に来た人の視点で語られる」という例として、『死国』、『高野聖』(泉鏡花)、『夜叉が池』(泉鏡花)、『ひぐらしのなく頃に』(竜騎士07)、『妖怪ハンター』(星大二郎)、『宗像教授伝奇考』(星野之宣)などが挙げられ、2ちゃんの「洒落怖」に話がうつります。

 

(吉田)2ちゃんねるで「洒落怖」が始まったのが2000年。今挙げてきたようなきちんとしたエンターテインメント作品がかなり出揃って、広く読まれるようになり、それらに触れて育った人たちが洒落怖に入っていったのかと思います。怖い話を書くんだったらこういうフォーマットでしょ、お化けが出るなら田舎でしょ、という風に。(中略)

(飯倉)そこから出てくるのが「くねくね」であり「杉沢村」であるっていうことですね。

(吉田)杉沢村は青森県でもともとあった噂。(中略)70~80年代からあった噂ですけど、それが日本全国に広まり、IT黎明期のすごくホットな話題になったという点で共通している。やっぱりみんな、そういうものを欲していたんでしょうね。

(飯倉)さらにここで「現実の村」離れを、もう一段階進めちゃったと思うんですよね。(中略)青森県や東北地方にすら行ったことのない人たちが、青森県の秘境の村をネットで探し始めたときには現実の「東北の寒村」の皮膚感覚的な理解はないはずですので、もうそれこそ何かの映画で見た怖い田舎のイメージをそのまま重ねていくことになったんだと思います。(中略)

(飯倉)昭和の終わり頃まであった、「田舎の人が都会に出てきて都会人になる」という回路はもう機能しておらず、都会で数世代を経ているから、経験のない田舎の方が怖くなってしまっているんですよ。横溝正史の時代には田舎が怖いんじゃなくて「田舎には変な奴や変なしきたりがあるから怖いぞ」だったのが、もう「田舎は怖いぞ」にシフトしている。「田舎は村ぐるみで何か隠しているぞ」っていうことになっている。実話怪談のフォーマットでも「田舎の人はみんな知っているんだけどよそ者には教えてくれない何かがある」っていうような、そういう話が多くなっているのはありますね。

(吉田)金田一シリーズだと別に一家とか一族ぐらいですもんね、グルになっているのは。(中略)

 批評的な視点も入って、だんだん複雑化しているんですかね。柳田國男横溝正史が描いた「今ここにあるもの」がタイムスパンを置くことでなくなり、そこからロマンを持って享受されるようになった。それが柳田再ブームや横溝再ブームとなって日本人に享受され、そして伝奇ホラーのようなものが作られていって。それが更に当たり前になっていくともう一捻り、民俗ホラーを怖がる様子をさらに外側から見るような流れになっているとは思うんですけど。

 

 このあたりは、『ネット怪談の民俗学』(廣田龍平)のレビューでも「かつてのいわゆる「実話怪談」は「都市伝説」といわれていて、田舎から都会に出た人間の体感する怖さだったが、今は田舎が分からなくなっているから因習ホラーが生まれているのだ」と指摘している人がいました。確かに「都市伝説」の多くは、隣に住んでいる人が全く知らない人であるという得体の知れなさ、都会の闇から生まれたのではないかという気がする。一方、「民俗ホラー」は都会で世代を重ねるごとに田舎の実態が分からなくなることでフォーマット化したのだとここでは指摘されています。そして『ネット怪談の民俗学』(廣田龍平)では、2010年代に入りこれらの因習系の怪談が生み出されづらくなった背景として、「差別、偏見」というキーワードを挙げています。「くねくね」「杉沢村」「コトリバコ」などでは、田舎や精神障害などに対する差別的表現が使われている。しかし、「投稿者やクリエイターは、地方や病気、障害、宗教などへの差別や偏見をプロットに組み込む作品を徐々に避けていっているように見える」「恐怖の根源には自分とは違うもの、自分の知らないものへの漠然とした不安や警戒があるとはよく言われることである。だが、そうした不安や警戒が、現実に存在する具体的な人々・集団や、それをモデルにした登場人物に直接向けられる怪談やホラー作品の体験談あるいは新作は、今後ゆるやかに減っていくのではないかと思われる」と、ここでは論じられています。

 30~40年代の現実が70年代に「再発見」されブームになる。そして90年代には地方出身者や研究者らによって比較的真剣にエンターテインメント化され、それが2000年代のネット黎明期にフォーマット化されて消費される。しかし2010年代には(ネット情報の広がりによって現実とのあまりの解離に気付かれたからなのか、ポリコレ意識が高まったからなのか)衰退し今にいたる。2020年代の怪談の語り手として背筋や梨が登場しますが、彼らの手法はファウンド・フッテージに移行しており、田舎でも都会でもありリアルでもバーチャルでもある場所から手がかりを与えられるという形式になっています。

 一方、ここではさらに「民俗ホラーをメタ化する」という視点でも論じられます。

 

(吉田)『予言の島』(2019)や『ばくうどの悪夢』(2022)は、かなりストレートに民俗ホラー好きをメタメタにこきおろしている。

(澤村)そうですね。どちらも「田舎はこうあるべきだ」って、はなから決めてかかる都会人の目線を茶化しまくったような小説なんですが。なんだろう……。最近は意外とマジで、みんな「田舎はああいうものだ」と思い始めているんじゃないかなっていうところがあって。横溝のような田舎であってほしい、現実の田舎なんてどうでもいいと思い始めている輩が現れつつあるんじゃないかという懸念はあるんですよね。

(吉田)私は批評的・批判的な視点も昔よりは育っているのかなという気もしますけど、それとは別に、70年代に「ザシキワラシっているんですか!?」って遠野を訪ねた人たちよりもさらに加速して、ストレートに「怖い村」があると信じている人が増えてるんじゃないかと。

(澤村)例えば、「つけびの村」事件ってあったじゃないですか。事件のルポをお書きになった高橋ユキさんが苦言を呈していましたが、ああいう事件に真相そっちのけで「土俗の闇」を期待して群がるネット民が実際にいるんですよ。現実の事件を横溝映画、つまりフィクションと同列に消費している。

(飯倉)定期的にいろんな場所で起こりますよね。村八分だなんだっていうのをすごく強調して、炎上を楽しんでいる人たち。この分野だけのことじゃなくて、全般に情報、リテラシーなどの分断がものすごく進んでしまって、自分たちと同じ意見の人としか意見交換しなくなっちゃったのでどんどん加速していく。

(澤村)それに対する危機感じゃないですけど、ちょっと一回、釘刺しとこうかなみたいなところはあるかもしれない。民俗ホラーが問題なんじゃなくて、民俗ホラーで描かれるカッコ付きの「地方」を、現実の地方に当てはめるのが問題なんだ、みたいな。

 

「差別・偏見を避けるために因習ホラーは衰退しつつある」という廣田の指摘とは反対に、現実を因習村フィクションとして消費する人たちについて触れています。つまりここでも書かれているように、二極化しているんですよね。ポリコレ層と、アンチ層と。でいずれもエコーチェンバー現象によって自分と同意見しか入ってこないから、加速していく。

『予言の島』は確かに民俗ホラーをおちょくって楽しんでいるような内容でした。『ばくうどの悪夢』はそれから更に何歩か踏み入っていて、茶化しているの域を超えて読者への攻撃性すら感じます。上に「作者の設定した土地を特異的なものとして受け入れるべきか、どこでもいいとりあえず田舎と理解してよいのか」と書きましたが、この小説では一人称の地の文に「クソ田舎」と書きながら客観的にはそれほど田舎ではないという一種の叙述トリックのような構造もあり、やはり「兵庫県」という地名のニュアンスも込みで読むべきかなと感じました。『ばくうどの悪夢』はね、ほんとに、土俗ホラー好き、伝奇ミステリ好き、田舎・男女・チー牛等の属性叩きやレスバ好きの人たちは読んでわが身を顧みてほしいですね。私も色々と身につまされたし、なんかとてもうんざりしました(現実に)。

 一方『つけびの村』は、正直何が言いたいのかよく分からんルポルタージュだった。おそらく犯人は統合失調症か何かで、別に閉鎖的な村だからとかじゃなくてどこにいても似たような事件を起こしたかもしれないという印象を受けます(実際理不尽な放火殺人事件ってド田舎でも大都会でも起きてますからね…)。しかしルポでは、(幻聴ではなく)実際に犯人が陰口の標的になっていたことが詳しく書かれており、それは事実なんでしょうが、そこを強調されると「村八分は本当にあった!」と言いたいのか?と感じたし、村の長老みたいな人が何かを隠していて何度も通ってようやく教えてもらえるのですがその内容が「山の神様が…」みたいなことだったり、えー、それ書く必要ある??何が言いたい??って思った。一応、「ネットではこんなデマが飛び交っていて未だにこんな風に言われているが…」というフォローは入り、それを訂正したいのかなという感じはしますが…。

 

 その後の議論では、「村ホラー」のポリコレ的な側面について更に触れられます。

 

(飯倉)そう考えると村ホラーの購買層は、かなり男性寄りですよね。ミリオン出版もそうですし。秘境を引き継いだ村ホラーというのは、生贄をみんなでいたぶるとか、かなり性的な場面が出てきやすいので、女性は遠ざけがちなのかな。

(吉田)暴力性ですね。(中略)実は文化系の男もずっと暴力衝動をどこかで発露させたいっていうのがある。しかも自分が悪いのではなく、こんなど田舎の怪しい奴らに散々ひどい目に遭わされたから仕方なくやり返すんだよっていう。言い訳を与えてくれる愉しさでもあるし、自分の暴力性の投影であったりもするんでしょうね。(中略)去勢されたと自分では感じている男性性を、秘境や土着の村に投影して取り戻したいっていう無意識の欲求があるんでしょうね。

(澤村)男らしさを出す場が「村」になっているんですね。自分の『ばくうどの悪夢』という小説の前半は「関西の地元に帰ってきた中年男性が大活躍!」みたいな話になっていて。僕はお話を面白くするために書いただけのつもりですけど、あながちデタラメ書いてるわけじゃなかったのかな。

(飯倉)澤村さんの作品で出てくるのは、「子どもを舐めるな、女を舐めるな」ですよね。村って、子どもや女を舐めまくっている制度なんですよ、基本的には。夏になると定期的に放送する『サマーウォーズ』(2009)についても、必ず批判的な反応が出てくる。なんで男たちばっかり盛り上がって、女たちは「さあ、やるわよ」と台所でずっと飯を炊いてるんだ、と。家刀自のお婆さんとヒロインの女の子でぼやかしてますけど、その地位に上り詰められる家刀自以外の女性は、全員制度の中でババを引かされるっていうのが村制度なので。

 

 あー、じゃあこういう「因習ホラー」はフェミニズムバックラッシュと表裏一体なのだろうか。こういう視点で見たことがなかったのでとても興味深く感じました。これは『ネット怪談の民俗学』でも指摘されていなかった視点かもしれない。まあホラーには古典的に「女・子どもを奪われる」(=血筋が絶える)怖さというのはあるだろうし、生殖や暴力など原始的な部分に訴えかけるエンタメなんだろうとは思いますけど。『ばくうどの悪夢』において、中年男性が大活躍!がなぜ暴力性の投影、やられたからやり返す、土着の村で男性性を投影させる、ということに繋がるのかは読んで確かめていただきたいのですが、この対談読んでからこの小説読んで、小説家(というか澤村伊智)のセンスってすごいなと思いました。無意識にやってるわけでしょ?

 

 次にイギリスの「フォーク・ホラー」を絡めて議論が進行するのですが、イギリス的なキリスト教もの(『不浄な三位一体』)と比べて日本の因習ものが論じられていて面白かったです。

 

(吉田)飯倉先生に聞きたいのは、やはり日本の土着、民俗、土俗ホラーで絶対出てくるのが「生贄」「人身御供」ですよね。それとフォーク・ホラーのほうのサクリファイスとはニュアンスが違うのではないかという気がします。

(飯倉)サクリファイスという時は、何か絶対的なものに対して捧げることによって共同体の維持とか、なんらかの見返りを求めるんです。逆に「人柱」という時は、人柱そのものが神になっていくんですよね。人柱は土手とか橋につけることが多いんですが、水神に生贄を捧げてそれによって工事しようというよりも、「水神が言うこと聞かないんだったらこっちは橋の神様を作っちゃうもんね」っていうシステムなんですよ。「橋の神様を作ってお前と対峙するから、これで対等だよね、橋できるよね」っていう、無理やり神様を作っちゃうシステムとして機能している場合が多い。だから橋の神様も祀らないと祟ってえらいことになるので、橋の神は橋姫とか怖い神様になっていく。どうも人身御供は単なる生贄じゃない。例えば沼の主が娘を欲しいっていう時、その娘を食べちゃうのかと思いきや夫婦になって娘も神になったりする。生贄システムではなく、神様作りシステムなんだろう。となるとそんなに被害者ではない。(中略)

(吉田)それは翻っていえば、日本には強大な唯一神がいないからそれに対する強大な悪もいない。非キリスト教ペイガニズムという、キリスト教徒が考える強大な悪の神様もいない。

 

 まあー、神様だの神様の嫁だのになりたいかって言われたら別になりたくないのでそういう意味では被害者かもしれませんが、単純な被害者ではない、強大な唯一神に捧げられたものではない、という西洋との対比は面白いと思いました。確かに日本では「神に生贄の娘を」とか言っといて娘が神の嫁になったりするよなぁ。スパダリ神に溺愛されて幸せに暮らしてたりね。この辺はホラー関係ない話なのですが興味深いと思いました。

 この後は再び、「因習ホラー」の変性について語られます。田舎からの離脱とその概念の拡張ですね。

 

(飯倉)民俗学の現場にいると逆説的に、もうフォークなんかないっていうのはよくわかることなんです。都市民俗学ということを言っていたのが、70年代から80年代までだったんですね。その後、都市民俗学って言わなくなるのは、もう都市じゃない所がなくなっちゃったからなんですよ。地理的には辺鄙でも、そこに住んでいる人は全員スマホ使って、テレビの大リーグの生中継で大谷を応援して、もはや都市とは地理的にしか変わらなくなっているので。(中略)だから、地方に独特の風習が残っていて、かつての日本文化を探ろうというような形の民俗学は成り立たない。もう、とどめを刺されてから30年40年経っているので。

(吉田)残っているとしたら、もう外部の目線から、これは文化だから残そうとして残しているだけ。

(飯倉)それはまたそれで新しいステージに行ったっていうことになるわけですけど。そこだけの特別な何か、例えば、特別な伝統的な発酵食品を作れる技術を伝えているお婆ちゃんとかもいますよ。でもそのお婆ちゃんも、多分それを作り終わったら、軽トラに乗ってセブンイレブン行ってお惣菜とか当たり前に買っているんですよ。そうなっている中で、隔絶した――さっき言っていた孤立性とか――そういったものを担保するような伝承などは、もうないんだなって実感します。そういう時代に生きていると、みんなが一つのことを信じられる村なんてあったら、逆に素晴らしいじゃないかと思っちゃいますけどね(笑)。

(吉田)よそ者を何人か殺してたとしても(笑)。

 

 このあたり面白すぎて笑い止まんなかったです。ま、そうだよなと。それこそ『予言の島』ではそういうとこが書かれてました。離島の村人がタブレットぽちぽちしてたりして。でもさあ、実際、生活の場と仕事の場が同一になりがちな第一次産業第二次産業に従事する人が多い田舎では村八分を恐れて行動できないってこと本当にありますけどね…。生活も仕事も同じコミュニティだから離脱できないんだよ…。

 

(澤村)ちょっとジャンルがずれちゃいますけど、有名な民俗学ミステリーの舞台ってたいてい昭和20年代なんですよね。でも昭和20年代というのもけっこう曲者というか。要するに、戦争が終わって土俗的なものが一度全部壊れたから、逆に書けるっていうことなんですよね。

(飯倉)そうですよね。戦争がすごいのは、一生外国なんか行かないはずの人を、大量に外国に送り込んだということなんですよね。だからもう自分たちの集落では当たり前のこととして暮らしていたのが、よそに行ったら当たり前じゃないんだっていうのを何段階もたたき込まれる。まず軍隊の集団生活でたたき込まれ、外国でたたき込まれ、そうやって死に物狂いで戦って、いざ帰ってきたら、まだこんなことやってるんだ、となる。

(澤村)歴史的事実としては戦後に新興宗教が出てきて、それは要するになんちゃって土俗というか、そういう土俗の表層を借りて、いわゆる土俗的なものを全く信じられなくなった人々のところに、ひゅっと入り込んで栄えたという。(中略)

(飯倉)戦後の新宗教と言われるようなものは、壊れてしまったコミュニティの代替物っていう側面もありますね。まさにホラーな、村的な集団に近い心持ちを教団に持つわけですよね。

(吉田)カルトっていうものは因習村と並んでフォーク・ホラーの題材にもなっている。(中略)田舎にあるとされてきた、隔離された歪んだ因習を持っている共同体というものは、別に都会にあってもおかしくはないですよね。ドラマ『サンクチュアリ』(2023)のような相撲界だったり、歌舞伎の梨園だったり。まさに我々が考える民俗ホラーの怖さと同質じゃないですか。実際どうかはわからないですけど、民俗ホラー的に「あそこの世界はこういう怖さがあるからな」というイメージが投影されがちではありますね。

(飯倉)ブラック企業なんかもそうですしね。いじめ物が流行るのもおそらくそこで、謎のルールっていうものを押し付けられる理不尽さ。別に田舎に行かなくても、ルールの違う所って普通にあるので。

(吉田)だんだん都会の方にも舞台が移っていくという流れはありますね。(中略)

(澤村)僕がそういった土俗、民俗的な話を若干書きづらく感じてしまうのは、僕が地方出身者だからなのかとは思うんですけど、それ以上にニュータウン出身だからなのかなとも思うんですね。コンビニもないような田舎だったけど、だからって別に土着的ではないしなっていう。(中略)

(吉田)次はニュータウンでしょうね。(中略)まさに因習村。いやでも実際そうですよ、空き巣とかもけっこう発生していますし。今の因習村はニュータウンですよね。ただ全くもって村人同士の結束はないですけどね。(中略)その隔絶感というのは、タワマンの最上階とも被るかもしれないですね。もはやタワマンも因習村扱いされているのかな。窓際三等兵、麻布競馬場らが書くタワマン文学も、土着ではないけれど閉鎖的な共同体独特の歪んだ道徳を描いていますし・実際にはああいうタワマンはないんでしょうけど、あるかもしれないと思いたい。

(澤村)その場の住民たちに謎の結束が求められてしまうんですかね。フィクションとしてでもあってほしいというか。

(吉田)あってほしい。「こんなタワマンあったら絶対、嫌だ!」って言いながら、実は心の底ではあったほうが嬉しい。ひどいタワマンがあって、そこでひどい目に遭う人たちを見るのが面白いという意味では、民俗ホラーと重なりますね。

 もっと広く取れば「こういう東京って嫌だ、でもそういう東京が見たい」というので描かれる東京だって、実際の東京ではない。『東京カレンダー』が提示するような幻想の東京であり、幻想の港区女子たち。そこでは東京もフォーク・ホラーの舞台になっている。

 

 このあたりの考察がめちゃくちゃ面白いなと思いました。民俗、土俗ホラーは田舎のものではないと。これは私も前から思ってたんだよなぁ。上の『ぼっけえ、きょうてえ』のとこにも書いたけど、これって岡山でなくてもいいのではないかと思ったし、要は「土俗」って、今自分が当たり前だと思っているルールが通用しない閉鎖空間であれば舞台はどこでもいいのではないかと。ここで言っているようにブラック企業とか、あるいは宗教施設とか。それに「因習村ホラー」で描かれるような出来事って必ずしも田舎でだけ起こるわけでもないし。呪いや怪異は「都市伝説」という名の通り都会にもあるものだし、上にも書いたみたいに、現実の放火殺人や大量殺人は田舎だけでなく都会でも起こります。『ばくうどの悪夢』ではテンプレ田舎人として架空のマイルドヤンキー家族が登場しますが、この『ジャパン・ホラーの現在地』で紹介されるルポルタージュ『ルポ川崎』では川崎(都市部)の不良の現実が描かれていて、要はそういう人たちって別に田舎特有の存在ではないだろうと思う。ここではその「閉鎖空間」の概念が更に拡張しており、相撲界、梨園ブラック企業といった一般人には伺い知れない「謎ルール」を持つ共同体や団地、ニュータウン、タワマン、さらには(現実ではない「地方」が因習ホラーの舞台として消費されるように)現実ではない「東京」も土俗ホラーの舞台になり得るのだと。これは「もはや都会でない場所が存在しない」という先ほどの議論にも繋がってくるし、ネットによってあらゆるところが繋がった結果、実は知っているつもりでよく知らない部分が可視化されたという面もあるのかもしれません。そして、「差別・偏見」という視点から「田舎」を舞台にするのは忌避されがちであるという現代において、 “弱者カード”を持っておらず叩きやすいという意味で逆に「タワマン」「都会」が因習ものの舞台にされやすい側面もあるのかもしれない。

 タワマン文学や東京カレンダーなどを“因習もの”という視点で見たことがなかったのでとても面白かったです。そしてまた、そういう意味では「民俗ホラー」は定義できない、ジャンル概念が確立できない、という結論になっています。

 

(吉田)まあ日本ではそもそも、ジャンル概念として括ろうっていう気運があまりないかもしれません。

(飯倉)その括り方をすることで何が見えてくるのか、もしくはセールス的に何かいいことがあるのかっていうと、まだ発見できていないかもしれないですね。都市伝説やネットロアの分析の中では「どんどん田舎で怖いことが起きる方向になってるね」という傾向は指摘されましたけれども、そこ止まりでした。それをやっている間に、ネットロアではもうみんなの関心が「きさらぎ駅」や「異世界エレベーター」など、異世界の方に行ってしまったので。

 

とあり、今まで因習ホラーの歴史と衰退、そして概念の拡張について議論されてきたけど、結局衰退の原因ってポリコレとか差別・偏見以前に飽きられただけなのかなという気もします。“田舎”が舞台として飽きられたのか、概念が薄まって団地やニュータウン、都会にも拡散する形で定着したのか。そのうち「異世界」が謎ルールを持つ共同体として登場したりすんのかな。

 

 もっと引用したかったのですがさすがに自粛しました。面白過ぎました。ぜひ読んでいただきたいです。超お勧めです。

 

 あとこの章の感想が長くなり過ぎたので、感想が3回に分かれます。まだ続きます。

吉田悠軌『ジャパン・ホラーの現在地』 感想3