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ダンテ・アリギエーリ(平川祐弘訳)『神曲』 感想2

 前回

yuifall.hatenablog.comの続きです。感想ってほどでもない駄文ですけど…。後半は煉獄篇と天国篇にごくさらっと触れてます。

 

 次の煉獄篇はいわばRPG的な感じで、額に七つのP(罪peccato)を押されたダンテが七つの大罪を浄化しそのPを消しながら天国へ登って行く…みたいな。合間にそれぞれの罪を犯した人の話を聞いたり自己を顧みたり誰かが浄化されて地震が起きるのを体験したりします。知らなかったのですが、「怠惰の罪」ってだらけることじゃなく「神への愛を怠る」ことだったんですね。最終的にベアトリーチェに辿り着き、「私が死んでからあんた何やってたん?」みたいにどやされたりしつついつの間にかウェルギリウスと別れ(辺獄に戻ったっぽい)、ダンテはベアトリーチェと天国へ向かいます。

 

 天国篇は基本禅問答なので難解です。解説やあとがきに

 

なお今日の日本の読者にとって『神曲』の詩人の位置はどのようなものであろうかということが問題となり得るが、それは所詮、個人個人の読者が下す評価であり、読者と『神曲』との全人格的な対決によって決定されるものと思われる。

 

とか

 

そうした「日本におけるダンテ」の系譜をたどると明治の幅の広い偉人たちにとってはまずなによりも有機体としての西欧文化があり、その全体との対決があったように思われるが、その後専門研究の分化にともなって境界線が引かれ、ダンテと格闘する巨人はかえって出づらくなったかのような印象を受ける。大正以降の人は『神曲』に全人格を投入して読むことをやめたのであろうか。

 

とあるのですが、この本をどうやって全人格を投入して読めばいいのか見当もつかん。

 というのも、これはいわばクロスオーバー創作物ですが、登場人物の9割がた分からないからです。注釈にこうあります。

 

名前の羅列そのものが詩の核心をなしていることについては『地獄篇』の川本皓嗣解説を参照されたい。ただし私見では固有名詞が詩的喚起力を持ち得るためには読者が当該国の過去の歴史に通じていなければ無理であろうと考える。

 

 そうなんですよ。Gleeでバートが「お前はロック・ハドソンタイプのゲイじゃない」って発言したりPOIでショウが「あのイーベル・クニーベルばりのスタントは何?」って発言したりする真意、その固有名詞の人がどんな人か分かってなきゃ全然分からないじゃないですか。『神曲』は基本ずっと固有名詞の羅列で話が進行するので、ペダンティックとは言わないけど教養によってかなり振り落とされますよね。そして現代日本において、全人格を投入してこれについていく意味があるのか自分に問いかけたとき、Yesと答えられる人は少ないのではないだろうか。名前出てくる全員のこと背景から思想からなんやかんや調べて有機的につなげて読んで、14世紀くらいまでのキリスト教世界のことを理解しそれと全人格的に向かい合う意味が、自分にとってあるのか?

 

 とはいえ、色々考えさせられたこともありました。「人の自由意志とは」という点と、「天国へ行くとは」ってことですね。

 

 そもそも地獄にトロイ戦争の英雄オデュッセウスをはじめ数々の偉人がいること、ちょっと引いたんですよ。何というか、生きることってそんな減点方式なの?何か崇高なことをしたとしても一つなんかやらかしたらそれで即終了なのか?いわゆる地雷問題的なやつか?って。もちろん洗礼を受け篤い信仰を抱くことで罪を犯しても少なくとも煉獄へは行ける流れなのですが、ここまで読んだ時は、これじゃあ天国って何もしてない人しかいないんじゃ?って思いました。何も罪を犯さず死んだ方がいいんじゃないか、例えば洗礼を受けて間もなく亡くなった赤ちゃんが一番尊いんじゃないのかと。

神曲』では、「自由意志」についての話が時々出て来ます。最初地獄篇では

 

空しい富貴が、時が経つにつれ、

ある民から他の民へ、ある血族から他の血族へ

人智の及ばぬところで移るよう定めてある。

 

みたいなこと言ってて、「富の流れは運命であり人智は及ばない」と言ってます。しかし「運命だから」というのは「万物は流転する」「驕れるものも久しからず」という意味にもとれるけど、一方で「どれほど他者から簒奪してもそれは運命だったのだ」と言うこともできるのではないか?と納得いってなかったのですが、煉獄篇ではこう書いてます。

 

君ら生きている人々はなにかというとすぐ原因を

天のせいにする、まるで天球が万事を

必然性により動かしているかのような口吻だ。

仮にそうだとすれば、君ら人間の中には

自由意志は滅んだことになり、善行が至福を

悪行が呵責を受けるのは正義にもとることとなる。

天球は君らの行為に始動は与えるが、

万事がそれで動くのではない。仮にそうだとしても

善悪を知る光や自由意志が君らには与えられている。

 

としています。天国篇ではこう書いてます。

 

「天地の創造に際して神が惜しみなく賜うた

最大の贈物は、神がもっとも重く見、

そして神の力にもっとも似つかわしいところの

意志の自由でした。

ひとり知性のある生物だけがみなすべて

この自由意志を、昔も今も、授かっているのです。

ですからこのことから推せば、誓願の持つ高い価値が

おまえにも解るはずです。もしおまえが誓願を立てれば

神は必ずやそれをお受けになるでしょう。

なぜかといえば神と人との間で契りが結ばれる際には、

いま述べたような、〔意志の自由の〕贈物が、

自発的に、犠牲に供されるからです。

 

 ちなみにこの「人間の自由意志」については、キリスト教ではたびたび議論になっていたようです。マイケル・サンデル(鬼澤忍訳)の『実力も運のうち 能力主義は正義か?』によれば、

 

(前略)神が全能だとすれば、悪の存在は、神が正義にもとる存在であることを暗示しているように思える。神学的見地からすると、次の三つの見解を同時にとることは、不可能ではないにせよ困難である――神は正義にかなう存在である、神は全能である、悪が存在する。

 この難題を解決する一つの方法は、人間の自由意志を認めることだ、これによって、悪への責任は神から人間へ移行する。(中略)

 こうした解決の初期の提唱者が、五世紀のイギリスの修道士、ペラギウスだ。(中略)

 とはいえ、彼が生きた時代には、その解決策は激しい反発を招いた。とりわけ激しかったのは、当時の最も偉大なキリスト教哲学者であるアウグスティヌスによるものだった。アウグスティヌスにとって、人間の自由意志を認めることは、神の全能性を否定し、神の究極の贈り物である十字架にかけられたキリストという犠牲の意味を損ねることだ。(中略)ルターのより一般的な主張は、アウグスティヌスと同じく、救済はすべて神の恩寵の問題であり、善行であれ儀式の遂行であれ、神の歓心を買うためのいかなる努力にも影響されないというものだった。われわれは天国への道をお金で買えないのと同様、祈りによって手に入れることもできないのだ。ルターにとって、神に選ばれることは自力では決して得られない贈り物である。(中略)

 神の恩寵をめぐるルターの厳格な教義は、断固たる反能力主義だった。それは善行による救済を拒絶し、人間の自由すなわち自助の余地を残さなかった。(中略)

 ルターと同じく、ジャン・カルヴァン(彼の神学はピューリタンに霊感を与えた)は、救済とは神の恩寵の問題であり、人間の能力や功罪によって決まるものではないと考えた。誰が救われ、誰が地獄に落ちるかは、あらかじめ運命づけられているのであり、人びとの生き方に応じて変わることはない。

 

 ダンテは1265-1321だから13世紀後半~14世紀前半の人で、カトリックです。一方ルターは1483-1546、ジャン・カルヴァンは1509-1564で16世紀の人で、プロテスタントに大きな影響を与えた人達です。この本では、ルター、カルヴァンが説いた反能力主義にも関わらず、彼らの教えがアメリカに能力主義的な労働倫理をもたらした、ということが書いてます。

 ダンテが『神曲』で言っているのは、意志を持たず行使しないことが清らかなのではなく意志を持ったうえで善を行うべきなのだと、そして神に誓うということは自由意志という最も尊いものを自発的に犠牲にし、神意に沿って生きることなのだと。そんな感じのことかなぁと思ったのですが、後からルターとかカルヴァンの話を読んでよく分かんなくなりました。でも『神曲』には「人間には自由意志がある」「それが最も素晴らしい贈り物である」と書いてあるし、やっぱりルターやカルヴァンの主張とは違うように思えます。

 

 あと、地獄篇、煉獄篇を読んでたあたりまでは、「地獄へ行きたくなくて天国へ行きたいのならば洗礼を受けて正しく生きよ」みたいな感じかと思ってたんですね。上述のようにルターやカルヴァンの言うような「救済とは神の恩寵の問題であり、人間の能力や功罪によって決まるものではない」という考えは16世紀のものだし、「死後天国へ行きたいから今正しく生きる」みたいな動機は道徳的でないという定言命法、カント哲学が登場するのは18世紀です。逆に言うとそれまでは「天国で報われるために現世を生きる」という発想だったのかなと思ってました。まあ実際中世の人の認識なんてその程度だったのかもしれないし(だから免罪符が売れたんでしょ?)、というよりも当時は現実が悲惨過ぎたから「死んだらいいことがある」って信じるくらいしか生きる救いがなかったんだろうなと。

 でも天国篇を読んで、もしかしたら天国というのはそういう、人生にインセンティブを与える目的の場所ではないのかもしれないと思いました。天国へ行くのは結果であって目的ではないのかもしれないと。つまりカントの言うように、「良く生きること」そのものが目的であって、その結果として天国へ行くのかもしれないと。ダンテが言いたいのもそういうことなのかなぁと朧げに感じました。そうでなければ天国篇を書く必要ないんじゃないかと思うんだよね。ただの脅しだったら正直地獄篇だけで十分だもん。煉獄篇で「悪人正機説」というか、「人は罪深く、自力では救われない存在であることを自覚し、神にすがるべき」みたいな思想が説かれ、神に縋って煉獄へ行き、そこで悔い改めることで天国へ行けることになります。要は現世で罪を自覚し信仰を抱くことで「良く生きる」の延長戦ができるというか。つまりそれこそが目的で、結果としてあるのが天国だということなのかなと思いました。

 

 私の理解はせいぜいこんなものですが、とりあえず読んだことで一定の満足は得られました。吉本隆明『最後の親鸞』を再読したくなりました。