不定期読書感想文なんですが、なんか記事溜まってきてしまったので土曜日に連続して出します。
以前 読書日記 2024年2月7-13日 で「後日出すかもしれないし出さないかもしれない」と書いてたダンテ『神曲』の感想です。感想文と言うほどでもない駄文なので迷ったのですが、そもそも最初から別に高尚なブログでもなんでもないんで駄文のままだらだら載せたいと思います。長いので2回に分けます。
ダンテ面白いよ、と勧められていたものの難しそうだなーと放置していたのですが、河出文庫版がセールになってたので3冊まとめ買いしてみました。地獄篇を中心に、煉獄篇と天国篇にはちょっと触れる感じの感想です。
最初は暗い森に迷い込んで猛獣に追われたりとかするあたりから始まるんで地味だなぁと思っていたのですが、次の第二歌からいきなりなろう系ラノベ感出してきました。
まず最初のあらすじにこうあります。
ダンテはあの世めぐりをするだけの力があるか否かについて疑問にとらわれる。するとウェルギリウスがなぜダンテを案内しに来たのか訳を説明する。天国にいるマリヤやベアトリーチェがダンテの難渋に同情して、地獄の辺獄にいたウェルギリウスに使いを依頼したのである。
冒頭から炸裂するやれやれ系主人公の異世界転生ラノベ感。マリヤ様もベアトリーチェもダンテに来てほしい♡と。
ちなみにベアトリーチェはダンテの「永遠の淑女」ですが、Wikipediaによれば一方的に片想いしていた相手で、別の人と結婚して子供も産んで若くして亡くなってるしダンテには別に妻がいます。そんな相手に「愛に心動かされ愛により申すのでございます」とか自分の詩の中で勝手に言わせちゃうこの人よっぽど図々しいですね。煉獄篇で再会した時には「私が死んでからダメになっちゃって!」とか散々責められてるし。実際そんな責めてくれんだろ。願望駄々洩れすぎです。
そしてここからウェルギリウスが案内役として付くのですが、この注釈がまた面白い。
あの世めぐりに旅立つに際して、ダンテはウェルギリウスを先達と頼み、その指導に全面的に信徒することを、畳みかけるような言葉で誓った。この二人の師弟関係は情愛に富み、ときにほとんど母子関係をも思わせる(『ダンテの地獄を読む』所収「ダンテにおける『甘えの構造』」参照)。
(中略)
ダンテとの会話に示されるウェルギリウスの知力やその情豊かな態度は彼を(とくに若い女性読者にとって)心ひかれる人物たらしめている。
これは聞き捨てならない発言です。わざわざ「とくに若い女性読者にとって」とつけるからには、ウェルギリウスの夢女子かウェルギリウス×ダンテの腐女子しかあり得んでしょう。こんな世界があったとはついぞ知らんかったわ…。
さて第三歌では、かの有名な地獄の門の台詞が登場します。「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」ですね。ここでは「われを過ぎんとするものは一切の望みを捨てよ」と訳されています。門が語っているということらしい。そこで立ち止まるという選択肢はないのでどちらにせよ門をくぐり、カロンの渡し舟に乗って三途の川を渡ります。
ここで「亡者どもの乗船」と題した挿絵が載ってるのですが、屈強な裸体の男たちがちっちゃい舟に適当に押し込まれてて、これ乗せる気あるんか、と笑いそうになった。どんな環境であってもどうしても船に乗りたい亡命者じゃないんだからさ…。そしてここでもウェルギリウスはダンテに甘々です。そもそも地獄の門をくぐる時、手を繋いでくれちゃってます。
そして明るい顔つきで先生は自分の手を
私の手に重ねた。それに心慰められ
先生に手を引かれて私は秘密の事物の世界へはいった。
ラストもこんな感じ。
善良な魂がここから川を渡ることはついぞない。
だから、カロンがおまえに難癖をつけたとすれば、
それが何を意味するかおまえには察しがつくだろう
つまり、「お前はいい子だから本当は渡っちゃダメだってカロンは言ってたんだよ、分かるでしょ?」とか言ってます。これ、書いてるのダンテ本人かと思うと無限に笑えるのですがみんな真面目に読んでんの?自分総愛され創作やん。
まあいいや、次は第四歌です。ここは辺獄なのですが、徳が高くてもキリスト教の洗礼を受けてない人はみんな適当にここにぶちこまれてます。ホメロスとかソクラテス、プラトンもいます。あとウェルギリウスもここから来た設定になってます。一応みんな徳が高い人物なので、ひどい目には合っていないっぽい。
この、“キリスト教の洗礼を受けてないととりあえず地獄行き”的なロジックには納得がいかないものの、そもそもこれは“キリスト教(カトリック)の地獄・煉獄・天国”の話だからなー、とか思いつつ一旦スルーしました。後で天国篇において、「キリストの生まれる前の人だけどこんな理由で天国にいます」みたいな人が数人出て来ます。この辺はダンテも苦しいと思ったんかね。
むしろここで気になるのは、ホメロス、ホラティウス、オウィディウス、ルカヌスなどと邂逅するシーンで、ここでは
そして私にはとり身にあまる光栄だが、
この賢者たちの第六番目の人として、
私をその仲間に招き入れた。
とあり、注釈には
ダンテが自分で自分をホメロス、ホラティウス、オウィディウス、ルカヌス、ウェルギリウスの次の第六番目の大詩人として西洋文学史の上に位置づけたとも見なせよう。
とあり、ウケた。ブレないっすねこの人。この「オレすごい」っぷり…。まあ、実際『神曲』ずっと読み継がれてるからそういう位置付けなのかもしれんし…。その後も煉獄篇で、グイド(カヴァルカンティ)がグイド(グイニツェルリ)から詩壇の王座を奪ったが、その両者を駆逐するものがすでに現れた(それはまさしく俺)みたいに言ってます。
さて次の第五歌からはいきなり“罪を犯した人”が入るところになっちゃってます。ちょっと待て、じゃあキリスト教の洗礼を受けておらず、徳が高くもない普通の人はどこ行くねん。どっかの罪に適当に割り当てられちゃうんか?したら自分はどこ入るんかなー。
この「第二の圏谷」は「肉欲の罪」だそうで。例としてセミラミス、ディド、クレオパトラ、ヘレナ、パリス、トリスタン等が挙げられ、フランチェスカとパオロに話を聞いたりします。
それにしてもこの「肉欲の罪」ってどう定義されるのかよく分からん。挙げられてる人はみな「愛によって現世を追われた」とかで、愛する人を失って自殺したり不貞?によって夫に殺されたりした人みたいなんですが、じゃあ生前散々遊んだけど最後病死した人とかはどうなんの?例えば阿部定とかロミオとジュリエットとかはここに入るとして、光源氏とかはどうなるんだ?逆に、愛ゆえに命を落としたけど肉欲の罪は犯してない人は?一方的にストーカーされて殺された処女とかどうなんの?「愛によって現世を追われて」るけど肉欲の罪は犯してないのでは?
注釈では与謝野晶子の歌
一人居てほと息つきぬ神曲の地獄の巻にわれを見出でず
が取り上げられていますが、いや晶子は明らかにここだろ?って思ってしまったよ…。そもそもキリスト教徒じゃなかったら基本地獄だし、不倫略奪愛やんか。でもまあ生前の功績を称えられて辺獄あたりでしょうか。一体何を思ってこう詠んだのかとても知りたいです。
次の第六歌は「第三の圏谷」でここは「大食の罪」です。ここでは罪自体というよりも、『神曲』全体に関わる面白いギミックが描かれます。注釈から引用すると、
地獄に堕ちた人は現世の現在の様子はわからないのだが、未来を予言する能力を授けられている(地十歌九七行以下参照)。この能力を想定したために地獄篇はより興趣に富むものになったといえるだろう。ダンテは執筆の時点ではすでに過去のものとなった現実に起こった事柄を地獄の人の口をかりて予言としていわせ、時々いまだ起こっていない事柄をそれにまぜていわせる。その後者は主にダンテの希望することなのだが、いま述べたような手法のために後者の予言までが真実味を帯びて迫ってくるのである。
ダンテ、異世界転生チート能力身に着けてます。
続けて第七歌は「第四の圏谷」で、ここは「強欲の罪」ですかね。このあたりから徐々にダンテに対するイラつきが募ってくる私です…。キリスト教の信者じゃないからかもしれませんが、これまではまあまあ許せてたダンテの傲慢と偏見っぷりが徐々に鼻についてきます。実際、この辺りから続くダンテの書き方には賛否両論あるようで、この章の注釈にも
西田幾多郎の言葉に「偉大な人間性を包んだダンテの神曲には、我々は純化せられ、引上げられる所が多いであらう。併しあの人はあまりにはつきりした物の見方を有つてゐる。そして捌く勿れといつた基督の教を奉ずる彼はあまりに人を捌くやうに思はれる。特に彼の政敵を地獄に陥し、彼の味方を天堂の上に置いたなどは公平とは考へられない。党派心を免れなかつたと思ふ」(「暖爐の側から」岩波書店『西田幾多郎全集』十二巻所収)とある。
こんな風に書かれています。それが次の第八歌以降さらに鼻につく感じになっていって、ここでは「高慢ちきな男」が泥まみれになっている様子が描かれます。
そこで私がいった、「泣こうが悔やもうが
おまえみたいな罰当たりはここに居残りだ、
汚れはててはいるがおまえには見覚えがある」
すると彼は舷にもろ手を差しのべたが、
先生はすばやく男を突き落とし、
「犬と一緒にとっとと向こうへ消えて失せろ!」
といって私の頸に腕をまいて、
私の頬に口づけていった、「義憤の魂よ、
おまえを身ごもった方に祝福あれ!
(以下略)
なんじゃこりゃ。ざまあ系小説かよ。妹に虐げられていた私がイケメンでスパダリな夫に溺愛されて!?かよ。その上ダンテは更に
そこで私がいった、「先生、この沼からあがる前に
奴がこの汚水の中にしたたか漬けられるさまを
是非とも見とどけたいのですが」
すると先生が私にいった、「向こう岸が見えだす前に
おまえの望みはかなうだろう。
そうした望みがかなうのは結構なことだ」
とか言い出します。いやー、ここまでくるといくらざまあ系でも感情移入難しくないか?本当は怖いグリム童話か?この辺は注釈にこう書かれてます。
「義憤の魂よ」とウェルギリウスがダンテに呼びかけたが、『神曲』はダンテという傷つけられた魂の火のように激しい怒りの文学である、という側面を持っている。そこに私的制裁の要素を認め、特に六〇行に示されたダンテの仮借ない態度をキリスト教の隣人愛の訓にそむくものと考える人もいる。
でしょうね。読みにくいわ。てかこの本、ダンテに相当感情移入して読まないと辛い気がしてきました。キリスト教も中世ヨーロッパのことも全然分からんし。
次の第九歌は「第六の圏谷」です。ここでは異教徒が焼かれてます。メドゥーサとかもいるんですが、2人はまたいちゃいちゃし始めます。
「おまえ後ろを向いて目をつむり顔を隠せ。いいか、
もしメドゥーサが現れて目にふれようものなら、
もう地上へは二度と還れないのだぞ」
先生はこういうと、自分で
私を後ろに向かせ、私の手には任せず、
自分の手で私の顔をおおい隠した。
なんじゃこりゃ。スパダリ溺愛ものかぁ、と思うと萌えられんわ…。イラッとするわ…。ここでも異教徒が異教徒というだけで焼かれてるんで、キリスト教(というかカトリックなのかな)のこういう傲慢さが好きになれん。一体与謝野晶子はなぜ「私はこの地獄にはいない」と思えたんでしょうね。私はこの世界観だったら自分は100%地獄にいると思いますが。
次の第十歌でもダンテのナルシストぶりが炸裂します。ファナリータがダンテに呼びかけるにあたり、
君の訛りから察すると確かに
君はあの高貴な国(フィレンツェ)の出らしいが
あの国にどうやら私は生前迷惑をかけ過ぎたようだ」
とかって、さりげなく自分を上げる。その後かつての親友のディスりまで挿入される始末。
亡霊は私のまわりを見まわした。まるで誰か他の人が
私と一緒にいはしないかと窺うような様子だったが、
その期待がまったく裏切られたと知ると、
泣き声でいった、「もし君がその才能ゆえに
この盲目の獄を行けるというのなら、
私の子はどこにいる? なぜ君の横におらぬ?」
私が答えた、「私は自分の力で来たのではありません、
あそこで控えている方が、私を導いてくださるのです。
でもお宅のグイド君は先生をどうも軽蔑していた」
この亡霊の名前は、その言葉や応酬の罰からも、
私にはたちどころに読めていたから、
このように意を尽くして答えることができたのだ。
だが彼はやにわに伸び上がって叫んだ、「君、何といった?
していたというと息子はもう生きていないのか?
麗しい日の光は息子の目にもうささないのか?」
私が返事をする前に
多少ためらったことに気づくと、彼は
のけぞるように倒れ、もう二度と外に姿を現さなかった。
これに関して注釈ではこう書かれています。
「英雄的な詩情にいわば友情の詩情が織り交ぜられている。昔は親しかったが、いろいろな事件や、気質や性格の相違から、破れたとはいえぬにせよ、むしばまれた友情にたいする悲しみの歌である。(以下略)」(クローチェ『ダンテの詩』)
「ダンテは其親友グイドの父カヴァルカンテ・カヴァルカンティをワキとしてファリナータの崇高な姿を描写する。カヴァルカンテが僅かに上半身を起して漸く頭を柩の上に出せるに対照して、ファリナータは直立して腰より上を悉くあらはし、その胸と額とを擡げ起して、恰も甚しく地獄を嘲るが如き面魂を見せる。さうしてカヴァルカンテがその子グイドに凶事あることを察して柩の中に倒れたときにも、彼は『顔をも変へず頸をも動かさず又身も曲げずに』、ただ自己の党派の敗北の報知がこの炎の床よりも我を苦めると叫ぶのである。吾々はファリナータを描写する詩人ダンテの態度に、意力の壮烈に対する嘆美の調べがあることを感ぜずにはゐられない」(阿部次郎「ダンテの『神曲』とニイチェの『ツァラトゥストラ』」)。
いや、むしろ仲たがいした親友をディスり、その父親に彼の死をほのめかしてショックを与えた上に、その惨めな姿をファリナータと対比させている胸糞悪い描写にしか思えないんですが…。しかもそのかつての親友じゃなくイケメンスパダリを隣に引き連れてね。今度は元カレざまあ系かよ。
ちなみにここで相対的によく描かれているファリナータはダンテの政敵にあたる皇帝党の党首らしく、一見すると政敵とはいえ英雄を讃えているようにも思えますが、そもそも彼を地獄の第六の圏谷に置いているわけで、第七歌で指摘されている通り
特に彼の政敵を地獄に陥し、彼の味方を天堂の上に置いたなどは公平とは考へられない。党派心を免れなかつたと思ふ
ということかと思われます。
第十一歌では「第七の圏谷」に下ろうとしています。ここでは「最初の圏谷には暴力を用いたものがいっぱいいる」と言っており、「神、自己、他人、その者とその所有の物とにたいして暴力をふるった」人たちがいる場所のようです。その中には高利貸や博奕、男色も含まれるのだとか。
まあ、中世カトリックなので男色とかはそこに含まれても仕方ないのかもしれませんが、この「高利貸」の理屈がいまいちよく分かりません。注釈にはこうあります。
「創世記」第二章十五節に「エホバ神其人を契りて彼をエデンの園に置き之を理め之を守らしめ給へり」とあり、さらに第三章十九節に「汝は面に汗して食物を食ひ……」とあるから、額に汗せずして生計を立てる高利貸は「神にたいして暴力を働」き(四六行)、「自然と神の恵みを蔑ろに」し(四八行)、「神の愛にそむく」(九六行)ことになる。
そしたら詩人だって「神の愛にそむいて」ないか?額に汗せず生計立ててない?この理屈だと第一次産業従事者以外はほぼ全員が神の愛にそむいてませんかね?この辺のことは聖書読み込まないと分からんのか?でもキリスト教徒がこういう建前で金貸し業をユダヤ教徒に押し付けておきながらユダヤ人を金の亡者みたいに言ってるのも気に食わないんだよな。
第十二歌ではこの「第七の圏谷」の「第一円」に入ります。ここでは地獄の灼熱の川で罪人が茹でられてます。このあたりの感じは仏教の地獄と似てますね。そういえば三途の川もそうだな。死後のイメージには色々な文化で共通するものがあるのかもしれません。
次の第十三歌では「第二円」に入るのですが、ここでは自殺者などがいます。キリスト教では自殺すると地獄へ行くっていうもんね。ここに来るのか。節くれてひね曲がった樹になっちゃうんだそうです。よく洋楽とかで出てくる「裸木」って自殺者のメタファーなのだろうか。この章は純粋に面白かったです。直喩、対比、引用などを巧みに用いた詩の技法についても注釈で解説されており、なるほどねー、と思いながら読みました。ここでは内村鑑三の言葉も引用しているのですが、それに対し「地獄の実在を信じたキリスト教徒の感想というべきだろう」と評しており、やっぱりこの詩の受け止め方についてはキリスト教を信じるかどうか、仮に強く信じていなかったとしても自分のバックグラウンドにそういう文化圏があるかどうかの影響は大きいように思えます。
第十四歌は「第三円」に辿り着きます。神を罵倒すると火の雨、高利貸は身を縮めて蹲り、男色者は絶えず走りまわっているのだとか。これもよー分からん。次第十五歌では「第三円」に入り、そこでかつての師、ブルネット・ラティーノに出会います。ここでも自分大好きが炸裂しちゃうよ。
すると彼がいった、「君は君の星に従って進むなら、
現世で見たてた私の眼に狂いがなければ、
まちがいなく栄光の港へ着けるはずだ。
私があれほど早死しなかったなら、
天が君にかくも幸いしているのを見た以上、
私は必ずや君の仕事を励ましたにちがいない。
(以下、敵をディスりダンテを褒めまくる)」
尊敬する師を地獄に落としておきながら自分を褒めたたえさせる厚かましさすごいですね。まー、尊敬する師とはいえ男色者だったら当時の常識だとこうせざるを得なかったのかもしれないなぁ、とこの時は思って読んでいたのですが、のちに煉獄篇の「色欲の罪」に男色も含まれていることが分かり、男色=即地獄、というわけではないっぽい。
私の浅い理解だと、キリスト教(カトリック)の洗礼を受け、現世で罪を犯したとしても信仰が篤ければ煉獄へ行って罪を償うチャンスを得られるという感じに見えるので、つまりダンテ的にこの師匠は信仰心篤くなかったと言いたいのか?まあ、師に対する態度はかなり丁重なので不快感はそれほどありません。しかし興味本位なのか、「同じ罪(男色)でここにいる有名人は誰ですか?」的なことを聞いちゃってはぐらかされたりしてます。笑える。
さて第十六歌・第十七歌は個人的にはそれほど面白くなかったのですが、注釈に
ダンテは脇道にそれて高利貸連中を見に行く。彼らはそれぞれ自分の家の紋がついた財嚢を首からぶらさげている。ダンテと同時代の読者にはこうした紋から人物の正体がわかったので、当時としては『神曲』はきわめてジャーナリスティックな意味も持っていたのである。
とあり、文春砲か?と思いました。うーん、でもこの人、わりと自分の好みで好き勝手書いているように見えるので、ジャーナリズムというより暴露本に近い気がする。現代だったら名誉棄損で訴えられているのではなかろうか。
さて、第十八歌でようやく「第八の圏谷」に入りました。ここにいるのは「偽善、阿諛追従、魔術魔法、虚偽、窃盗、聖職売買、女衒、汚職」などなど、の人だそうです。注釈によると、第十八から第三十まで、地獄篇のおよそ四割が「第八の圏谷」の話だとか。ここでは第一の壕「女衒」「阿諛追従」です。女たらしやおべっか使い、遊女がいます。
『神曲』の前に『レ・ミゼラブル』読んでたのですが、フォンテーヌみたいにどん底に陥って身体を売らざるを得なかった人もここに落とされちゃうんかね。てかヒュプシピュレを孕ませて捨てたイアソンがここにいるということはフォンテーヌを妊娠させて捨てた男も多分ここに行くことになるわけで、被害者と加害者が地獄の同じ場所に?それってかなり理不尽じゃね?中世カトリックの男女観さぁ…。あとイアソンが「王者の風を保つ人として描かれて」いて、それを注釈では
その意味で他三者(ファリナータ、カパネウス、オデュッセウス)と同じく『神曲』の倫理的整合性を破っている人物といえる。その種の破格が彩りを添え詩的興味を強めているのである。
と書いていますが、こいつは「他の女たちをみな欺いた狡い女を俺が逆に騙して捨ててやった」とあんま悪びれた様子ないし、単に「女が悪いから分からせてやっただけ」みたいな書き方じゃないか? それにある面で非道だったり堕落していたりする人がある面では高潔だったりするのは割とよくあることで、特に女たらしの男を王者の風を保つ人物として描くのはホモソーシャルな庇い合いにすぎないのでは、と感じて私の詩的興味は強まりませんでした。
ここからしばらく「第八の圏谷」にいます。ダンテが堕落した法王などその時代の教会のあり方に憤っていたことがよく分かります(この憤りは天国篇までずっと持ち越します)。ここでは鬼が出てきて鬼同士喧嘩してたりしてわりと笑えます。この間2人は相変わらず(しかも一度ならず)「抱いていてあげる♡」「先生♡」みたいにめためたしてるしダンテは「下で焼かれてる奴ら見てみたいなー」とか「俺は幸運の星に生まれて天賦の才に恵まれてるんだから身を慎まなきゃな」とか相変わらずの自己中ナルシストっぷりを発揮してます。この辺りは「劇的な情景である」と情景描写が絶賛されているのですが、漫画でも小説でもバトルシーンは斜め読み派なのであんま刺さらず…。こういうの楽しめる人心底羨ましいです。どうも目が滑るんだよなぁ。
それにしてもトロイ戦争の英雄オデュッセウスを「権謀術策」の罪で地獄行きにしちゃうとかマジで罪深いな…。このあたりのことは注釈にこうあります。
このオデュセウスはギリシャの叙事詩の運命的な英雄であるというよりも、初期ルネサンスのフィレンツェ市に生まれたファウスト的人物に近い心情の持主といえるだろう。ダンテの詩句に見られる未知の世界へ乗りだしてゆく者の求知心の激しさは、人間の自己形成というメタフィジカルな意味において後代の人の興奮と情熱を呼び、ヴィクトリア朝の詩人テニスンも「この魂は、沈みゆく星のごとく人間思想の極限のかなたへ、知識を求め、望み、憧れる」という彼の「ユリシーズ」を書いている。
「仲間を激励するオデュセウスはダンテ自身の一面である。……このダンテによるオデュセウス像は罪深い姿かもしれないが、崇高な罪である。おそらくギリシャのエポスやギリシャの悲劇中のオデュセウスよりも偉大な姿といえるだろう」(クローチェ『ダンテの詩』)
そうなのか。
しかし次二十八歌でマホメットが登場し、正直かなり引きました。まあ当時の情勢を思えば仕方ないのかもしれませんが、イスラム教の始祖を地獄行きとかちょっと傲慢すぎないか。逆にイスラム教側からの創作物も読んでみたいですね。当時イエス・キリストをどう扱ってたのか?
次の二十九歌では「贋金造り」が罰せられているのですが、このくだりは興味深いと思いました。注釈によれば、当時フィレンツェは貨幣経済に入ったところだったので、その根幹を揺るがしかねない贋金造りは欺瞞の罪の中でも一番重いとされたそうです。現在だったらクラッカー(悪意のハッカー)みたいな存在ですかね。
その後もダンテは自分の気に食わない相手を地獄で発見してその髪を抜いたりしてますが、注釈によれば
今日では創作中の人物となり切つて分からなくなつてゐたが当時は、モデルに対する作者の愛憎の感じが読者に認められてゐたであらうと察せられる。政争のために故国を放逐されて、二十年間の艱苦を嘗めたダンテだもの、背信の裏切り者に対して憤激して、その髪の毛を引き抜くぐらゐ当然であつて、強ひて倫理問題を云為するには及ばないのである。(正宗白鳥『ダンテについて』)
ということだそうです。これは阿部次郎の『神曲』論に対する批判なのだとか。
ペンは剣よりも強しというか、政治闘争で追われた恨みを詩で晴らしたわけですよね。それは詩人として正しい姿勢なのかもしれない。当時創作物がそういうものとして受け入れられていたというのはいいし、当時の倫理観では受け入れられるという解釈には納得します。そしてこういう系統の創作物が中世からあって現代もあって滅びないことにある種の感嘆は抱きました。報われない現状を創作物で晴らすのは確かに創作行為の王道かもしれないし、凝縮されたルサンチマンが込められた創作物はいつの時代も多くの人の心を打つのだなあと。
ただ、私はルサンチマン系創作物苦手だし、彼に感情移入して読むかどうかはこっちの勝手なので…。ざまあ系総愛され異世界転生メアリースー物のクロスオーバー創作かぁ、とは思うよね。これは好みの問題です。
第三十三歌では、ウゴリーノ伯が四人の子や孫とともに塔に幽閉されて餓死した様子が語られます。正直この章が「地獄篇」で一番怖かったよ。これは地獄じゃなくて実際に起きたことのようなので…。ウゴリーノはなんで地獄に堕ちたんでしょうね?世間の解釈(絶食に敗れ子供を食った)に従って、ということだろうか?この章については「独立した価値を有している」と評され、全体から切り離されても鑑賞に耐えうると書かれています。それはそうだなと思います。
最後、第三十四歌で「第九の圏谷」の「第四の円」、地獄の底で悪魔大王ベルゼブル(ルシファー)と出会い、地球の中心で頭と脚の位置を逆転させて外へ出たところで地獄篇は終わります。
つづく。