「短歌と俳句の五十番勝負」 感想の注意書きです。
ねむれ風 ねむれ太陽 めざめるな プールサイドに列ぶ背骨よ (穂村弘)
この短歌いいですね。<今ここ>の眩しさを、永遠に無傷のまま留めたい、という衝動だそうです。それについて、
少年や青年を見ると、反射的に「嗚呼、まだどこも傷めたことがない体の持ち主」と思うことがある。
とあり、では「めざめて」しまうということは身体を傷めるということなのか、と思いました。
このエッセイでは単純に「身体の痛み」として「腰とか首とか膝とか」を痛めたエピソードが書かれており、穂村弘が想定している「背骨」の持ち主は「少年」ないし「青年」なのですけど、女の立場からは、「まだどこも傷めたことがない体の持ち主」という言葉にもっと性的な暗喩を読んでしまいます。作中主体が女性で、想定する「背骨」の持ち主が「少女」だったらどうだろうか。
性愛の痛みは背に残りいてくちなわなれば歩みがたきか (梅内美華子)
を思い出しました。女たちの方がもっと切実に、少女らに向かって「めざめるな」と思っているような気もします。エッセイの最後には
学校の「プールサイドに列ぶ背骨」は、その持ち主が代わるだけで、いつまでも無傷のままだ。
とあり、この発想に恐れおののきました。持ち主が代わっても「プールサイドの背骨」は永遠に無傷なのか。穂村弘怖いなって思った。なんか、思考のキレがヤバい。
缶詰の鮭の背骨の歯ざわりに骨梁くづるるさまぞ目に見ゆ (yuifall)