「短歌と俳句の五十番勝負」 感想の注意書きです。
去年今年流星を見る風見鶏 (堀本裕樹)
「去年今年」と言われるとどうしても
去年今年貫く棒の如きもの (高浜虚子)
を連想します。なんかこう、本当は区切りなんてねえんだぞ!みたいな迫力。堀本裕樹の俳句は、「棒」ではなくて「流星」でもっと儚い感じですね。日付が変わる一瞬に流れていって消える流星を風見鶏が見ている、という。本当はもしかしたらそれは流星ではなくて、風によって風見鶏そのものが動いたことによって星が移動したように見えたのかもしれませんが。
この「流星」に込められた意味を堀本裕樹は解説にこう書いています。
風見鶏にも願いがあるのなら、どんな願い事を三回繰り返すのだろう。もし、僕が風見鶏だったら「わたしに命を!」と願うだろう。「もう風ばかり見るのは飽きました。雨風に翻弄されながら、くるくる回り続けるのはまっぴらです。命を得て自由に地を駆け空を飛びたいです」という祈りを胸に。
うーん、そう言われちゃうと、「本当は流星ではなかった」説をより採りたくなりますね。動いているのは星じゃなくて自分なんです。昨日までは去年、今日からは今年、と区切りをつけているのは人間たちだけで、本当は時間の流れを区切ることなどできないように。
その鳥は不死鳥だろう父が指す風見鶏この美しい街 (yuifall)