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小林恭二 『短歌パラダイス』感想 1-4「燕」

『短歌パラダイス』感想の注意書きおよび歌合一日目、二日目のルールはこちらです。

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4戦目は「燕」です。

 

琥珀日和のこのひるさがりわがうちに燕とばせてきみがほほゑむ (荻原裕幸

春服を着てもひもじき空の下まず燕来よつばくらめ来よ (三枝昂之)

 

 荻原裕幸の歌好きです。「琥珀日和」って造語がまたいいし、多分テーマが「燕」だから小春日和の春バージョンみたいな、暖色で透明感のある暖かい日かなと。そんな日の昼下がりに、恋人がほほえんでいて、「わがうちに燕とばせて」。琥珀、という言葉から、自分の中に燕が飛んだまま封入されているような不思議な情景がイメージされました。つまり、この「琥珀」は自分の心の風景でもあるのかなと。「燕」は安心な家みたいなほっとする環境の象徴でもあるし、さらに穿った読み方をすれば、この「きみ」は年上の女性なのかなって気もします。全体的に暖かくて家庭的な女性との穏やかな関係がイメージされる歌だなと思いました。

 

味方チームは

・初句が七音であるにも関わらずうまく収まっている。それは二句の「このひるさがり」と「こ」の頭韻を踏んでいるからであって、じつに柔らかい。ここからふわっと燕が飛んでいき、恋人の世界に繋がる。見事である(奥村)

・こころのなかに燕がとびめぐるくらい相手を高揚させながら、自分は静かに微笑んでいる。そんな二人の感じが琥珀日和という空気とも実によく響き合っている(俵)

 

敵チームは

・「燕とばせて」によって生み出された「きみがほほゑむ」を共有できない(紀野)

 

と言っています。私はこの奥村晃作の指摘によってはじめて「琥珀日和の」が七音だったことに気づきました…。ちゃんと読めよって気持ちと、言葉の使い方がうまいから気づかないのもしょうがないなって気持ちが(笑)。ちなみに加藤次郎は「小春日和」と勘違いして議論から脱落してた(笑)。

 

 

 次に三枝の歌です。これは、春が来たにも関わらずまだひもじい、という言い方から、戦後の復興期をイメージしました。そこに、家や農村の繁栄の象徴である「燕」に来てほしい、という思いが、「まず燕来よつばくらめ来よ」と繰り返されることによって切羽詰まった祈りとして感じられます。「燕」と言っているけど、おそらくは「豊穣」のようなものを呼び込もうとしている歌なのかなと。

 

味方チームは

・戦後風景としてのひもじさに対して「まず燕来よ」と言い、しかしまだそれがふっきれずに屈折しながら「つばくらめ来よ」と呼び掛けている。歌の格があって大きい(吉川)

・最初の「燕来よ」は咄嗟に口をついてでた言葉。二度目の「つばくらめ来よ」は祈りに似たもの。二度目の燕こそ、自我の中の潜在的な力を表す、こころの燕である。そこを平仮名でひらいて書いているのは、万が一の遺漏もなく読者にその思いを届けたいという気持ち(穂村)

 

敵チームは

・「つばくらめ来よ」というリフレーンは必要ない、蛇足である(奥村)

・「ひもじさ」がひっかかる。今の時代、この言葉の実感はほとんど伝わってこない(加藤)

・「まず」という書き出しが説明的(東)

 

と言っています。

 

 

 この2首はどちらもレベルが高く、あんまり否定しようがない感じがします。議論を読んでいても荻原の歌にはほとんど否定コメントがついていなかったし、三枝の歌の否定コメントはほとんど言いがかりみたいな感じで(笑)、敵チームががんばってひねり出した理屈という感じでした。それに対していずれも味方チームが素晴らしい解説をつけており、これは勝ち負けをつけるのが難しいなぁと。

 個人的には、ぱっと見読んだ時に好感を持ったのは荻原裕幸の歌でした。でも、なんとなく相聞を取るのは安易かなって思いも自分の中にあり、また穂村弘の解釈を読んで、三枝昂之の歌すごくいいなって思ったんですよね。

 で、とても悩んだんですが、最終的には加藤次郎の言う、「ひもじさの実感が今の時代は伝わってこない」っていうのに共感してしまって…。私自身は「ひもじい」時代を生きたことがないし、何らかの精神的な飢餓感と読み替えることも難しく、この歌のよさが多分読み切れないって感じます。だからどうしてもどっちかを選ばなきゃないとしたら荻原裕幸かなぁって思いました。

 

 

A swallow's shadow made an arrow to tomorrow, please allow me to hollow the bone marrow. (yuifall)

明日をさす矢印のごと続く影骨の髄まで燕飛ばして