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小林恭二 『短歌パラダイス』感想 1-3「パラシュート」

『短歌パラダイス』感想の注意書きおよび歌合一日目、二日目のルールはこちらです。

yuifall.hatenablog.com

3番目は「パラシュート」です。

 

ふくだみてパラシュート浮く春の昼馬魚様の人体さがる (河野裕子

パラシュートひらきし刹那わが顔のステンドグラス荒天に見ゆ (水原紫苑

 

 これは、河野裕子の歌はそれほど難解ではないと思います。なんかほっとしました(笑)。春の昼に空を見上げると、パラシュートを開いて降りてくる人がいて、タツノオトシゴみたいに人の身体がぶら下がっていると。情景も目に浮かぶし、「ふくだみて」「馬魚様」っていう言葉の使い方も好きです。難癖をつけるとすれば、一体どこにいてどういう状況?とか、「人体」っていう言葉のそっけなさでしょうか。

 

味方チームは

・「パラシュート」という異物をうまく包み込んでいる。見立てが巧みである(加藤)

・「人」と書かず「人体」としたのは物理的なものとして「人」を解放したいという意図がある(東)

・たっぷりとした豊かな春の時間があり、これがパラシュートというまどかな球形ととてもマッチしている(道浦)

 

敵チームは

・「人体」の「ジン」の響きが引っかかる。また、パラシュートに「人体がさがる」というのはあたりまえ(紀野)

 

と言っています。

 

 

 一方で水原紫苑の方は全然分からん(笑)。荒天の中でパラシュートを開いたとき、私の顔のステンドグラスが空に浮かぶ。そもそも荒天でパラシュートを開くんだから、おそらくは心象風景かと思います。何かのっぴきならない切羽詰まった状態の中に飛び込もうとしていて、だけど剥き出しで飛び込むんじゃなくてパラシュートを装備しているんだよね。で、飛び込んだ荒天の中に自分の顔がステンドグラスのように浮かび上がる。ステンドグラスっていうと光を通して光る様子がイメージされるのですが、「荒天」だからそういうキラキラした感じじゃなくておそらくは灰色の背景にマットな質感で浮かび上がる感じ。

 この「顔」はどんな顔なんだろう。不安なのか、やってやるぜって感じなのか、それともステンドグラスに象徴されるような宗教画的な穏やかな表情なのか…。

 

味方チームは

・極彩色のパラシュートが荒天の中を「わが顔のステンドグラス」として降りてくる。主体と客体の区別がなく、パラシュートと自分は入れ替わり可能である(吉川)

・自分もパラシュートも、更にはステンドグラスまでも、みんな一緒になったキマイラ的一体感がある。精神状態の恐ろしさがある(穂村)

・パラシュートの開く瞬間、その「刹那」の瞬間に集中している(岡井)

 

敵チームは

・吉川の解釈は、「パラシュートがひらく映像こそがわが顔のステンドグラス」と言っている。一方で穂村は「パラシュートとは別に啓示としての自分の顔が、空の一角にステンドグラスのように見える」と解釈している。これは解釈が一致していない(加藤)

 

と言っています。

 

 加藤治郎はこの時「これでは勝てないよ」と言ったのですが、解釈不一致だと勝てないのか?だって、水原紫苑の歌、統一した解釈を相談なしに導くのって不可能じゃないですか(笑)?むしろ、読む人によって解釈の仕方とか感じ取り方が変わってくることがこういう難解な歌の魅力なのかなって思うんですが…。

 

 個人的には河野裕子の勝ちだな。水原紫苑の歌はモチーフを盛りすぎな感じがするし、解釈が難しすぎるので(笑)。でも、河野裕子はパラシュートの穏やかさを詠んでいて、水原紫苑はパラシュートの緊迫感を詠んでいて、どちらも面白いなと思いました。水原紫苑の歌からは、パラシュート開かなかったらどうしようっていう、一瞬死んだみたいな感じがするのが魅力的ですね。

 

 

ハンドルは捨てて飛ぼうよパラシュート開いて降りたとこがスタート (yuifall)