左右社 出版 山田航編著 「桜前線開架宣言 Born after 1970 現代短歌日本代表」 感想の注意書きです。
瀬戸夏子②
解説を読むと、以下引用
そこで瀬戸夏子は、ニューウェーブ短歌から巻き戻るかたちで前衛短歌に熱中したことを述べたうえで、かつてニューウェーブ短歌の代表格であった穂村弘が、時代を反映した自我をうつしとった作風へと変化していったことを「そんな歌に私は関心がない」と一蹴する。瀬戸は、近代以降の短歌が一貫してアイデンティティとしてきた「自我」を疑う。だから「連作」や「作者」、「<私>性」といった近代的概念を解体しようとする。
引用おわり。とあります。
うーん、分からん(笑)。まあ、思うに、美術における抽象表現の短歌ヴァージョンというか、「説明しない」美学なのかなーと勝手に思ってます。分かってほしいと思わないというか。おそらく、何らかの思想的な秩序が背景にあるんだけど、それは説明されないんだよね。ランダムに見える整数の列が複雑な定理で表されることを一部の人しか分からないように。それはそういった、数学的な芸術なのかなと思いました。
こんなにも恥ずかしがらずに見つめあえることはこの先一生ないわ
望遠鏡にあなたはめぐってキキララが痴呆のように同姓同名
フランスパン、嵐が丘、愛猫家、駆落ち、だれも感動しない
みたいな作品をみると、理解されることを求めていないある種の秩序を感じます。完全にランダマイズされたものだったら、おそらく子供の落書きと同じレベルになっちゃうんだけど、クレメント・グリーンバーグ的というか、サブカルチャーがカルチャー化しつつあることに対するアンチテーゼなのかなーと思いながら読みました。
ニューウェーブ的な短歌っていうのはもともとメインカルチャーに対するカウンターパート的なものとして出てきたんだと思うんですけど、まあ要は「誰にでもわかるよ」みたいな、少女漫画みたいなさ。そこで「前衛」っていうのはもはや理解されることを拒絶しているわけですから。
銀杏のにおい 四つの目 それってすっごく1999年なプレコックス感だね。 (yuifall)