「一首鑑賞」の注意書きです。
243.次の夏いっしょに行きたかった場所 あした言おうとしてたひとこと
(谷村はるか)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで魚村晋太郎が紹介していました。
これは、「歌集あるいは連作の中から一首を抜き出して読んでよいか」ということをとても考えさせられる歌です。
一首だけで読めば、純粋に、恋の歌と読めます。まだまだ続くと思っていた恋、当然明日も伝えられると思っていた言葉、それが今日断ち切られる。別れの後残るのは、伝えなかった後悔ではないと思う。相手に気持ちがなかったら言葉の意味は無効になってしまうのだから。ただ、その「ひとこと」を伝えられないまま終わってしまったという事実だけが残される。
ですが、鑑賞文を読んで、そんな歌ではなかったことを知ります。
連作のなかで、一首の前には、
声がするドームの骨の間(あい)の空その手を離してはいけないと
の一首がならぶ。
ドームとは広島の原爆ドーム、爆心地に近い旧広島県産業奨励館の廃墟である。
1945年8月6日にアメリカによって投下された原子爆弾の犠牲者はその年の終わりまでに推定で14万人。現在、死没者名簿には25万人を超える犠牲者の名前が記載されている。
そして、その死者の多くには、残されてその死を悲しむ家族や友人や、恋人たちがいた。
言葉を失いました。連作の前後を読まないと、この歌の状況は全く読み切れません。歌の本当の意味にも鳥肌が立ったし、それがこのようにまるで何気ない恋の歌のように提示されることにも衝撃、というか、ショックを受けました。
この歌の主体は亡くなった人かもしれないし、残された人かもしれない。
でも、やっぱり、作者自身かもしれません。鑑賞文にはこうもあります。
過去の感傷にひたっているのではない。
ドームの骨組みの向こうに見える青空や、多くの犠牲者を飲み込んだといわれる川の流れを日日見つめながら、主人公は、死者たちの声や残された人たちの声に、いま現在の自分自身の生き方を、愛し方を問われているのだ。
ここで“純粋な一首”に戻ってくるというか、「今愛している」という現在進行形の愛の歌としてとらえ直される感覚があります。
いや、でも、ほんと分かりません。一首だけで読んでいたら、絶対に、「原爆ドーム」という背景にはたどり着けない。でも、一首だけで読んではいけないのか、と考えると、そんなはずないじゃんとも思う自分もいるんだよな。どんな連作の中の一首であっても、一首で成立するべきだと。
なので、こういう歌は、ある意味「叙述ミステリー」的というか、最後まで読むと全然意味が違って見える歌として個人的には受け止めたいと思います。
ぼくじゃなくきみのあしたを夢に見るあしたはぼくがいなくても来る (yuifall)