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読書日記 2024年4月3-9日

読書日記 2024年4月3-9日

スティーヴン・キング深町眞理子訳)『シャイニング』上下

SFマガジン 2022年12月号 『カート・ヴォネガット生誕100周年記念特集』

・セバスチャン・フィツェック(酒寄進一訳)『乗客ナンバー23の消失』

・花川戸菖蒲『愚直スタイリッシュ』

SFマガジン 2022年4月号 『BLとSF』

ロバート・A・ハインライン福島正実訳)『夏への扉

SFマガジン 2024年4月号 『BLとSF2』

カズオ・イシグロ土屋政雄訳)『日の名残り

 

以下コメント・ネタバレあり

スティーヴン・キング深町眞理子訳)『シャイニング』上下

 最近古典SF読んだりしてるので古典ホラーを。途中まではちょっと退屈だったのですが、最後はとても面白かったです。というか途中までが退屈に感じたのって多分、私たち世代がすでに「スティーヴン・キング的なもの」に慣れてるからだよなと思った。この小説出たの70年代ですし、その後のミステリ、ホラー作家はだいたいみんなこれを読んできてるわけですもんね。

 一件落着したと思ってからさらに心臓に悪い仕掛けがあったり、だから本当のラストを読むまで安心できなかったりして、さすが巨匠、ストーリーテラーだなぁと思いました。でもSFより更にホラーは肌に合わないなと思ったのでしばらくいいや…。なんか理屈とかないし意味分かんないもん。

 

SFマガジン 2022年12月号 『カート・ヴォネガット生誕100周年記念特集』

 カート・ヴォネガットの特集だったので買ってみた。といっても私は『スローターハウス5』と『タイタンの妖女』しか読んだことないド素人ですけど…。1984年のインタビュー記事が載ってたりして面白かったです。「ちゃんと科学について調べた正しいSFでないと(ブラッドベリはそうではないがアシモフはそう)」「地球はもはや使えないから捨てて他の星に行くみたいな内容は許せない」と言っていたのが印象に残りました。そして記者のどうでもいい雑感とかが入りまくりなのが時代を感じて笑えました。そういうのは今だったらインタビュー記事じゃなくて「編集後記」みたいな小ネタ欄に入るような。

 初めて知ったのですが、「アイス・ナイン」って『猫のゆりかご』に出てくる「世界を滅ぼす物質」のことだったのか…。知らなかった。パーソン・オブ・インタレストで「世界のネットワークを破壊するプログラム」として登場した「アイス・ナイン」ってここから取ってたんだ。いやー、知ってたらめちゃくちゃ興奮しただろうに。やっぱ海外ドラマって7割くらいしか理解できてないんだろうなとこういうとこで思います。

 とても字が多くてお得なんですけど、文芸雑誌っていくら読んでも全部読んだ感じしないとこがどうも苦手なんですよね…。連載とかあるからかなぁとも思いましたが、短歌の雑誌でもそう思うのであんま関係ない気がする。別に全部読まなくてもいいんだろうとは思うんですが。。とりあえず特集部分は全部読みました。

 

・セバスチャン・フィツェック(酒寄進一訳)『乗客ナンバー23の消失』

 電子書籍サイトでしょっちゅうおすすめされるのでつい買っちゃった本。どんでん返しという意味ではとても面白いのですが、ヨーロッパミステリってよく小児性虐待ものにぶちあたるのでそれがちょっと…。それ要素抜きで頼むわ…。

 

・花川戸菖蒲『愚直スタイリッシュ』

 ずーーっと積んであったので読んでみた。BLというよりもJUNEものですね。初版2006年、初出2001年でした。雰囲気は榎田尤利『夏の子供』に似てるかなぁ。『夏の子供』は2009初版だから初出はもっと前ですね。こういうジャンルって『純情ロマンチカ』(中村春菊)あたりからBLとして一般に広がったイメージがあったのですが、これは2002年でした。『BLとSF2』によれば、1997~1998年くらいから「ボーイズラブ」という言葉が使われ始めたそうです。2000年代前半は過渡期なのかも。

 内容はJUNE版『まほろ駅前多田便利軒』(三浦しをん)みたいな感じですが、片方がJUNEにありがちな性暴力被害者です。ですが、立ち直るとこまで描ききらないで終わるのでうーん。。。って感じでした。「セックスなんていらない、ずっと一緒にいる」って言うけど、25歳ですよ??このまま35歳、45歳とかなるわけ?木原音瀬みたいに、どん底からえげつなくぶつかり合って変わっていくとこ描けないんだったらこんなテーマ安易に使うべきじゃないんじゃ?と思ってしまいました。どうせだったら翠を攻にして「僕は男だ!」ってさせれば?

 

SFマガジン 2022年4月号 『BLとSF』

 小説やコラム満載でかなり読み応えあります。一穂ミチ木原音瀬がやっぱ上手でした。あと瀬戸夏子、この分野までこんなに見識が深いとは知らなんだ…。雪舟えまがBL書いてるのは知ってましたが、瀬戸夏子はJUNEまで論じられるのか。驚きです。逆にすごい疑問だったのが琴柱遥のオメガバースもので、しょっぱなから「これがオメガバースの発見だった」って書いてあってこれどういう意味???ってなりました。

 そもそもオメガバースってomega + universe の造語で、meta + universe の造語メタバースとか、パラレル二次という意味の alternative universe と同様、“こういう世界観です”という意味の「バース」ですよね。だからジャンルとして「オメガバースもの」というのは「アルファ、ベータ、オメガという“第2の性”がある世界観ものです」という意味でそれはいいんだけど、作中で「オメガバースの発見」とか書かれると、「ここはパラレルワールドであることが分かった」みたいな超メタな言い方になるじゃん。例えばメタバースだったらそこは“別の現実”であるという共通認識があって「メタバースにログインしてる」みたいに使えるけど、「オメガバースが発見される」という文章は“そこが別の現実である”という共通認識が作中人物にない以上意味が通りません。それ分かって書いてんの?もしかしてバースをbirthと勘違いしてるのか?一体どういう意味なの?二次なら“バース性”とか意味不明なことが書かれててもスルーするけど、一次のしかもSF特集に採用されたシリアスものでこの導入だったので、あとどんなに真面目に書かれてても作中に「オメガバース」という言葉が出てくるたびに萎えすぎて全く読めなかった。SFってfictionであってもscienceなんだから、用語の定義くらいは守って書いてほしい。てか校閲とか入らないわけ?

 他は、「BL×SF作品ガイド」とか「佐川俊彦インタビュー」とか載っててとても面白かった。しかし「BL×SF作品ガイド」にはこれBLじゃなくね?みたいなのも含まれていて、一体どこまでBLなんでしょうか。一般レーベルから出ているブロマンス小説やバディものをBLとしてしまっていいのか?なんなら特集で載ってる小説の『分離』(サム・J・ミラー)も小説として面白いけどBLではないと思う。まー、なんだかんだ言って私としては面白い小説や漫画が紹介されててお得だったのですが。『完璧な夏の日』(ラヴィ・ティドハー)とか『星を継ぐもの』(ジェイムズ・P・ホーガン)とか読んでみたい。

 そういえばBLとは全然関係ないですが『プロジェクト・ヘイル・メアリー』(アンディ・ウィアー)が紹介されている記事があったのでちょっと嬉しくなりました。これも一種のバディものですけどね。まあ男同士かどうかは微妙ですが…。『グッド・オーメンズ』(ニール・ゲイマンテリー・プラチェット)も男同士かどうかは微妙だけどバディもののSFと言えなくもないかもしれない。

 

ロバート・A・ハインライン福島正実訳)『夏への扉

 古典SF。めちゃくちゃ読みやすかった。途中で展開やオチがほぼ分かってしまったのですが、これは現代人だから仕方ない…。こういう話すでに何度も読んできてるもん。有名で人気であればあるほどその後ネタ擦られまくってしまっているんだなぁと思いました。しかし展開やオチが読めても面白かったです。

 

SFマガジン 2024年4月号 『BLとSF2』

 こっちも榎田尤利、尾上与一、樋口美沙緒などそうそうたるメンバーが短編寄稿しててとても面白かったです。とはいえ尾上与一と榎田尤利の話は、どっちも筆力すごかったけどBLあるあるでオチは読めます。樋口美沙緒は、これBLなのか?てかオメガバースってそんな真面目に論じる価値あるか?

 前回もオメガバースジェンダーSFとして論じられてて、今回も「TLへの逆輸入」という観点から論じられていたのですが、そもそもオメガバースってもともとリバ絶許な海外腐女子のドリームとして成立したアホエロ設定じゃないの?BLかどうかも怪しいよ。妊娠・出産できるなら性自認(社会的性・ジェンダー)や外観がどうあれ、医学的に(生物学的性・セックス)は疑いようなく女では?単なるスパダリ男と性的魅力強者女の恋愛ものではないの?

 オメガバースってアルファは生まれつき能力が高いことが約束されているという、要はアリストクラシー(生まれで階級が決まる貴族政)+メリトクラシー(才能で社会的地位が決まる能力主義)のハイブリッドな究極の階級社会、努力では絶対に解決不能な不平等世界モノで、オメガはまるで被差別階級みたいな描かれ方してるけど実際は全然そうじゃないじゃん。特になんもせんでもそこにいるだけで運命♡フェロモン♡ってなるし最愛の正妻としてアルファに迎え入れられることが運命づけられているわけで、アルファ同様生まれつき特権階級であることが約束されてるわけですよね。全然感情移入できなくね?はっきり言って「ふつう」とされるベータが最も底辺というか絶対に階級這い上がれない世界観だし、自分も普通の人だからアルファにもオメガにも感情移入できんのよ。まだ性自認や外観が男のオメガならジェンダー的な意味での葛藤があるのかもしれませんが(まあ、そんなガチな葛藤ある話ほとんど読んだことないですけど。男性自認なのに…というと結局は映画『ボーイズ・ドント・クライ』に勝てなくない?)、これでTLだと更に何の意味があんのか全然分からん。古典的な特権階級のラブストーリー見せられてるだけやん。あと、基本的にどのルートを辿ってもアルファとの結婚・妊娠・出産・子育て=幸せ♡みたいなオチになんのがマジ無理。

 自分も二次で書いたことあるし読むときもあるんでこんなこと言うのなんですが、一次だと笑えるやつ以外あまり興味が持てません。実際、二次と一次じゃ全然意味合いが違うと思うんだよなー。二次の場合は原作の世界観(性自認や人間関係など)をそのまま“オメガバース”(パラレルワールド)に持ち込んだ時にどうなるか、ってのを楽しむものだし、運命の番とか”第二の性”設定で相手固定・左右固定にできて、あわよくば妊娠・出産で~永遠の幸せ~END. でハッピーしてくださいみたいな感じじゃん。でも一次SFと考えるとかなり設定ガバです。そもそも人類の成り立ちからその世界観だったら、外性器も含めて外観で性別決める社会にはなりませんよ。例えば異星人で5本足のやつと4本足のやつが一緒に暮らしてたとして、子供を産むのが9割は5本足、1割は4本足のやつだったとしたら、「へえー、オスも1割は子供産むんだ!」ってならないじゃん。「メスも少なくとも1割は4本足なんだなぁ」ってなるでしょ。そしたら見た目なんて人種の違いレベルの亜型に過ぎないでしょ。

 だから「男性自認なのに強制妊娠」みたいな葛藤話が成り立つのは、例えば謎のウイルスパンデミックで急に人間の身体がそう変化して…みたいな「第一世代」モノじゃないとダメで、そういうBL×SFとしてなら『侍女の物語』(マーガレット・アトウッド)男性自認バージョンみたいなネチネチと救いようもなく暗いディストピアものが設定として面白いと思うんだけどね(『侍女の物語』も第一世代ものだし)。TLで突き詰めると、特権階級の奥様であるオメガに社会における自己実現は可能か…みたいな近代フェミニズム話にしかならんし。所詮もともとアホエロ設定なんだから、振り切ったギャグの方が圧倒的に面白いのでは。今まで読んだ中では『僕のハイスペック彼氏様』(よつあし)が笑えてよかったです。

 ところでこの号でも水上文がオメガバースを論じるのに「バース性」という言葉使っててそれなんだよってなった。Verse + sex ですよ??どういう意味?そもそもここでいうverseってuniverseの略語だし。宇宙性??意味不明である。この用語、もう人口に膾炙しすぎて誤用と思われてないんですかね。まあ「バース性」については100歩譲ってそういう日本語として受け入れてもいいんですが、「オメガバースの発見」とか地の文に書かれてるSFまで受け入れるのは無理…。繰り返すけど二次ならともかく商業ではやめてほしい。トランスジェンダーのことを「ジェンダーの人」とか言ってるようなもんじゃないですか。

 他は、瀬戸夏子の「木原音瀬論」が面白かったな。瀬戸夏子の文章面白いですね。もっと色々読みたい。4月は積読消化月間にしようと思っていたのに瀬戸夏子の本を衝動的に3冊も買ってしまった。でも第一歌集の『そのなかに心臓を作って住みなさい』はもう買えませんでした。残念です。

 

カズオ・イシグロ土屋政雄訳)『日の名残り

 これを35歳で書いたとか、さすがノーベル文学賞受賞者はすごいなと思いました。この年代の人の取返しのつかない絶望をこの筆致で描くというのは、並大抵の人にはできないよ…。

 いや、ほんとめちゃくちゃ残酷だなと思いながら読みました。父の死に際の悲しみも自分の恋心も全てを抑え真摯に仕えた人がナチの手先になって弾劾され没落して、自分は屋敷と共に売られ、買ったのはいわゆる“名家”でも歴史に名を残す政治家でもなくアメリカの成金だったと…。主人公である執事、スティーブンスは滅私奉公を「品格」と信じるわけですが、そのために全てを失うことになります。そしてそれを薄々分かっていながら、自分自身にはそれを認められない。だからこの一人称小説は“信用できない語り手”ものとして読まれています。スティーブンスが最も嘘をつきたいのは自分自身だからです。

 ミス・ケントンとのほのかな恋のくだりも悲しかった。これ、自分で書いてないからはっきりとは分かりませんが、明らかにスティーブンスが最初から最後までケントンを好きだったことがほのめかされています。最初ケントンが「付き纏わないで」というのは、要はスティーブンスが意味もないのにつきまとってたってことだし、彼女の結婚前も自分では「おめでとう」と言いながらケントンに「いやがらせみたいな態度はやめて」と言われています。言ってることとやってることがあべこべなんだよね、この人。執事だからやってはいけない、考えてはいけないと思っていることが多すぎるし。恋愛小説を読んでいることさえもぐだぐだと言い訳したりさ。だから書いてないけど色々やらかしてんだろうなーと行間を読みながら読むことになるわけですが…。

 結局スティーブンスは執事は常に執事であるべきと思い込んでいるので、ケントンの前でも自分を見せられません。ケントンはそんな彼をやがて諦めて結婚してしまう。結婚し、愛してくれた夫を愛するようになり、子を持ち、孫も産まれるところです。別に家庭を持つことが幸福の全てとは思いませんが、自分で選び取った人生を生きているという意味でスティーブンスの人生と対比するととても悲しいよね。彼がダーリントン卿に捧げてきた人生は何だったんだろうと。

 ダーリントン卿についても、スティーブンスは自分で自分に疑問を持つことを禁じています。主人が「ユダヤ人を雇うのはやめる」と言えば、全く異論を挟まず従います。そして卿がそれを撤回した後になって、「明らかに間違っていた、自明のことだ」などと言い出したりします。その後も、ダーリントン卿を大切に思う人たちが卿がナチに利用されていることを案じているのに、スティーブンスはそれについて考えようとしません。私情を挟まず従うことが正しいと思っているから。「せめて好奇心を持って」と懇願されても我関せずの態度です。

 父の臨終にも立ち会わず仕事を優先し、恋心も犠牲にし、自分の信条よりも主人の命令を優先するこの生き方、もしかしたら日本人には理解可能かもしれないなと思った。作中では「大陸の人には分からないが、イギリスではそうだ」みたいに言われています。これは差別主義的な読み方もできるけど、確かに“大陸の人”、アメリカ人とかヨーロッパ人や中国人には全然理解できなくても島国だから分かるところもあるんじゃ、という気もしました。でもその生き方をした結果、この人は全てを失うんだよなー。まあそれはある意味当然のことで、自分の人生に自分で責任を取らないからですよね。「品格」がどうこう言いながら他人に丸投げだから。

 ただ、一つ思うのは、スティーブンスは全てを失ったことを誰かのせいにはしないんですよね。ダーリントン卿のせいで自分は不幸だ、とは思わない。そして新興成金みたいな新しい主人のことも、軽蔑したりはしません。彼に従うべくアメリカンジョークを勉強しようとしたりしてる。

 悪い人ではないんだろうけど、結局自分がないんだろうなとも思いました。ケントンが「夫を愛している」と言った時に“胸が張り裂けそうだ”と自分に認めたのが最初で最後で、「ジョークなんて無理だしやーめた、もう好きに生きるわ」とはならんし。新しい主人ファラディが「おもしれー男」って思ってくれればいいけどさ、アメリカに新しい家買って全然訪ねて来なくなる未来しか見えないよね。まあ、もうこれから新しい生き方なんて無理だし、守ってきた家と一緒に没落してくんだろうなーと…。

 自分の人生の全てが間違っていたということを取返しのつかない時点で悟る(でもそれを完全には認められず、自分自身を誤魔化しながらなおも他人に自分の人生を丸投げしようとする)というとんでもなく恐ろしい話なのになんかしみじみするしちょっと笑えるし、とにかく圧倒されました。