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翻訳の面白さ① 外国詩の邦訳

 洋楽の和訳をするときに、元の歌詞を調べているとだいたい和訳をしてくれているサイトさんにもあたるので、いくつかのサイトさんをはしごして歌詞の解釈を読み比べたりして楽しんでいるのですが、I-youを「俺‐お前」「僕‐きみ」「私‐あなた」など一人称と二人称を変えることで印象がかなり違って面白いなっていつも思います。

 

 北村薫の『詩歌の待ち伏せ』を読んでいて、プレヴェールの『Déjeuner du matin』という詩が紹介されていました。原文はここには載せませんが、ネットで探せばいくらでも出てきます。

 『詩歌の待ち伏せ』で面白かったのは、この訳を5パターンも紹介していることです。結局、フランス語が第一言語でない私たちはこの詩を原文で味わうことができず、訳文を味わっている、という主旨なのですが、しかし逆に言うと優れた訳文を味わうことはフランス語を第一言語とする人には不可能である、という考察もあり興味深いです。訳詩も、人によって結構雰囲気が違っていて、読むと面白いなと思いました。

 さすがに5パターン全て引用するのはちょっと長すぎるので、『詩歌の待ち伏せ』をお読みいただきたいのですが、対比のために最初と最後の2つを挙げてみます。

 

「朝食」 (訳・内藤濯

 

茶碗にコーヒーをつぎました

コーヒー入りの茶碗にミルクを入れました

ミルク入りのコーヒーに砂糖を入れました

小匙でかきまわしました

ミルク入りのコーヒーを飲んで

茶碗を下におきました

わたしに物を言わないで

シガレットに火をつけました

煙の輪をいくつもつくりました

灰を灰皿に落しました

わたしに物を言わないで

わたしを見ないで立ちあがりました

帽子をかぶりました

レーンコートを着ました

雨が降っていたからです

そして雨の中を出ていきました

物ひとつ言わないで わたしを見ないで

わたしは両手で頭を抱えました

そして泣きました

 

 

「朝の食事」 (訳・大岡信

 

あの人 コーヒーをついだ

茶碗の中に

あの人 ミルクをいれた

コーヒー茶碗に

あの人 砂糖をおとした

ミルク・コーヒーに

小さなスプーンで

かきまわした

あの人 ミルク・コーヒーを飲んだ

それから茶碗を置いた

あたしにひとこともいわず

煙草に

火をつけた

煙草の煙を

輪にしてふかした

灰皿に

灰をおとした

あたしにひとこともいわず

あたしを一度も見ずに

あの人 たちあがった

あの人

帽子を頭にかぶった

あの人

レイン・コートを着た

雨が降っていたから

あの人 出ていった

雨の中へ

ひとことも話さず

あたしを一度も見ずに

そしてあたしは

頭をかかえた

それから 泣いた。

 

 

 以下は引用ですが、

 

男と女をどう表現するかに関していうなら、何と五つの訳が全て違っているのです。

 

内藤訳 主語なし―わたし

小笠原訳 主語なし―私

平田訳 彼―わたし

北川訳 かれ―あたし

大岡訳 あの人―あたし

 

ということになります。

 

 

 まず、一人称と文体の違いでこれほど印象が違うことに驚きました。この詩はそれほど複雑なものではないらしいのですが(フランス語分からないので複雑かどうかは分かりませんが、確かに内容的にはどの訳もほとんど違いはありません)、語り方の違いによって、北村薫の言葉を借りれば「山の手の」お嬢様からちょっと蓮っ葉な女の子まで、キャラクターも違って見えます。

 また、この章とは別の章で、再びこの「朝の食事」の話題が出てきます。

 

先日、神田を歩いていて、『夜の扉―プレヴェールと芭蕉』(村松定史・沖積舎)という本と出合いました。(中略)

題名は、《正確には「朝の昼食」の意》だといいます。

《日常語とのズレ、矛盾語法に詩人は何かを語らせようとしているようだ》。男が《ごくありふれたフランス人の朝食で、朝はこれ以外あまり口にしないのが普通》であるミルクコーヒーを、《昼食として》《飲んでいるのは、これが昼近い朝のことで、実際はその日最初の「朝食」だということである》。

フランス人には、説明されなくともこれが分かるわけです。詩を読んで浮かぶ時刻は、いつ頃か。翻訳と原詩で二、三時間ずれて来るようです。それ以前の《朝》や《早朝》に、何があったのでしょう。大いに想像させるところです。

さらに、《ところで、語法上の性数に厳密なフランス語ながら、この詩の語り手である「わたし」の性を女とも男とも決定する要素は、文法的にはどこにもない。二人はどういう関係で、いかなる愛を抱き、棄てたのか。ここは、誰のアパルトマンか、「かれ」はどこへ行き、「わたし」はどうするのか。愛の詮索は限りを持たない……。》とまでいわれると、これはもう、諸手を挙げて降参するしかありません。考えもしませんでした。

日本語訳でも、《あたし》を使っているものはともかく、《わたし》や《私》で訳している場合、なるほど《男》と読めないこともありません。それは曲げて考えれば――ということです。ところが原詩について《語法上の性数に厳密なフランス語ながら》といわれてしまうと、うなりますね。うーん、解釈というのは面白い。

 

 ここでは、語り手の性別の点に触れてあったのが面白いと思いました。私自身も、半ばわざと、英語詞を和訳する時に男女を入れ替えたりすることはあります。Iもしくはyouはどの性別でもいいわけですから…。

 この詩に関しては、敢えて男性として読まれることはなかったのかもしれませんが(プレヴェールについてはほとんど何も知りませんが、もしかすると作者に異性愛者という背景があれば、その詩が敢えてマイノリティの文脈から読まれることはないでしょう)、「わたし」を「僕」として訳しても間違いではない、と考えられます。というか作者が男性なわけだから、「わたし」は男性である、と考えても不自然ではないですよね。

 

 しかし、一般的な《朝食》を昼に摂っているなら、それは「朝の昼食」じゃなくて「昼の朝食」じゃないの?そう訳してくれれば、昼近くに《朝食》を摂っているということが分かりそうなものですが、その点どうなんでしょうか…。

 

 ところで、「翻訳の面白さ」に関して、『詩歌の待ち伏せ』では、さ・え・ら書房 『口語訳詩で味わう百人一首』(佐佐木幸綱)と講談社 『百人一首がよくわかる』(橋本治)も取り上げていて、百人一首の現代語訳も紹介しています。面白かったのでこの2冊を買ってみました。幻戯書房 『トリビュート×百人一首』も併せて、いくつか歌を取り上げて紹介したいなと思います。