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東郷雄二 『橄欖追放 [sai] 歌合始末記』 感想 「パパイヤ」

橄欖追放 [sai] 歌合始末記 感想

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橄欖追放 [sai] 歌合始末記

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 第一戦は「パパイヤ」です。

 

タイ内陸部、チェンマイ

パパイヤを提げて見てをり瞑想のまへに僧侶がはづす眼鏡を (光森裕樹)

うるはしきルーティンワーク犇めけるパパイヤのたね身に飼ひながら (石川美南)

 

 歌合参加者の発言などの詳細については[sai]に載っているそうで、サイト上だけでは詳しく見られないのが残念なのですが、分かる範囲で歌の「読み」も味わいながら考えてみました。

 

 

タイ内陸部、チェンマイ

パパイヤを提げて見てをり瞑想のまへに僧侶がはづす眼鏡を (光森裕樹)

 

 光森の歌は、「タイ内陸部、チェンマイ」と詞書があり、タイが舞台であることが分かります。そこから、「僧侶」が敬虔な仏教の僧侶であることが想像されます。自分はパパイヤを買って寺院を見学に来た観光客で、僧侶が瞑想の前に外した眼鏡を見ている、という情景でしょう。

 これに関しては自分ではこれ以上読み切ることができず、解説を見ながら考えました。高島裕の発言が引用されています。

 

私には高島裕の示した解釈が印象深かった。眼鏡は近視の人がこの世の事物を見るために必要なものであり、この世を暫時離脱する瞑想に入る僧侶には必要のないものである。眼鏡を外す行為は、見える世界から見えない世界への移行の喩であり、この歌にはそのような仏教的世界観が表現されているというのである。

 

 確かにそうだ、と思い、瞑想の前に「眼鏡をはずす」ことで僧侶の精神性や世界観が表現されていることに納得しました。そこから更に考えたのですが、「わたし」が見ているのは「僧侶」ではなくて「眼鏡」なんですよね。つまり、「俗世を見るための」ツールです。自分は「パパイヤ」を提げていて、僧侶は「眼鏡」を外す、という行為が描写されている以上、「パパイヤを提げる」ことと「眼鏡をはずす」(=俗世からの離脱)ことは多分繋がっているんだと思う。じゃあこの場合、「パパイヤ」は何のメタファーなんだろうか。東郷雄二は

 

パパイヤの形状と、黄色い果肉の中に黒い種がぎっしり詰まっている内部構造が重要ではないかということだ。パパイヤの外見はやや括れた卵形をしているが、卵はしばしば宇宙や再生のシンボルとされる。また内部に詰まった種はビッグバンのごとき爆発的な生産力を暗示する。するとパパイヤ自体を転成を繰り返す宇宙の暗喩とみなせるのではないか。ならば僧侶が眼鏡を外す行為が象徴するこの世からの離脱と、パパイヤが体現する宇宙的次元はよくマッチするのである。

 

と書いています。うーん、これは分かるようで分からない。というのは、私は「パパイヤ」が題であるということを考えた時、じゃあ「マンゴー」に変えてみたらどうなるの、って考えたんです。光森の歌は、なんで「マンゴー」じゃなくて「パパイヤ」じゃなきゃいけないか、っていうのが自分で自分をうまく納得させられなくて。東郷雄二の解釈を読んでも、「卵型である」「内部に種が詰まっている」というこの2点では、マンゴーじゃだめ?をひっくり返せないと思う。確かに「パパイヤ」は「黒い種がぎっしり」で、「マンゴー」は「白くて大きい種が1個」だけど、「ビッグバンのごとき爆発的な生産力」という観点からこの両者を鑑別できるかなぁ。パパイヤの種のぎっしり感は確かに鳥肌ものですが、マンゴーの種のインパクトもすごいですよ。種、でかっ!ってなるよ。爆発的な生命力を感じるよ(笑)。

 

 

うるはしきルーティンワーク犇めけるパパイヤのたね身に飼ひながら (石川美南)

 

 石川の歌は、その点にフォーカスされてます。「パパイヤ」の「たね」が「犇めける」って言っているのだから、これは「パパイヤ」でしょう。「マンゴー」ではないよね。解説では

 

この歌のポイントは「犇めける」という表現で密集する種の様子を描写した点と、パパイヤの種を外在的事物として詠むのではなく、体内の感覚の喩として提示した点にある。その感覚はルーティンワークに象徴される卑小な日常性に対する焦燥だろう。

 

と評されています。

 この歌は題をすごくよく活かしてるなって思う反面、なんかおさまりが悪いようにも感じられます。まず、東郷雄二も指摘しているのですが、二句切れなのか三句切れなのか分かりにくく、読んでいてぶつぶつ切れる印象を受けます。あとは、「ルーチンワーク」と「パパイヤ」って言葉の組み合わせの相性があんまりよくないような気がする。だって、「パパイヤ」はどう考えても非日常ですよ(笑)。あとこの歌では「パパイヤのたね」はあるけど「パパイヤ」はないんですよね。それも気になる。まあ、「パパイヤのたね身に飼ひながら」なんだから、パパイヤは自分なんでしょうが…。そうなると「パパイヤ」=自分、にとって、種はルーチンワークなのかもしれませんが。

 

 どっちを勝ちとするかって考えると難しいです。歌の完成度は光森の方が上だと思うんですが、「パパイヤ」という題詠であると考えると石川の方がうまく生かしているようにも思われます。解説にも

 

題詠では「パパイヤ」という題が十分生かされているか、「パパイヤ」でなくても成立する歌ではないかといった点が、歌の優劣を判定するポイントとして重視される。光森の歌をめぐっても、ひとしきりそのような議論が続いた。

 

とあり、光森の歌の「パパイヤ」がどう解釈されていたのか、なぜ「パパイヤ」でなくてはならなかったのか、議論の詳細を知りたかったなぁと思いました。

 総合的にはやっぱり光森裕樹の勝ちかなぁって思うんですが…。

 

 

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