「一首鑑賞」の注意書きです。
249.朝方はまだ飛び方が変という程度だったが昼には逝った
(武藤義哉)
砂子屋書房「一首鑑賞」コーナーで山下翔が紹介していました。
最近(というかこの記事書いてた頃)やたらと近現代史の本を読んでいて、ナチスドイツとかロシア革命とかマルクス主義とか第一次世界大戦とか大日本帝国とかそういう類のやつなんですが、そのためかこの歌を最初読んだ時戦闘機のことかと思いました。でも、当然違います。
「ピーちゃん」というセキセイインコである。歌集のはじめのほうに、この家にやってきて住むことになったいきさつがうたわれている。
ピーちゃんがピーちゃんと言うピーちゃんは自らの名とたぶん知らずに
まわりが「ピーちゃん」「ピーちゃん」と呼ぶのを真似して、インコのがわも「ピーちゃん」「ピーちゃん」とくりかえす。そういう風景が、かつてあった。
鑑賞文にはこうありました。セキセイインコのことですね。
「飛び方が変」が妙に生々しい感じがします。
死というと、いかにも死にそうな激しいものを想像するが、昨日まであんなに元気だったのに、という人が次の日とつぜん死んだりする。おもいかえせば、あれもこれも予兆のようにうつるのだが、しかしどれもこれも、そのときには死につながるとはおもいもしないことなのだ。
もしかしたら予兆に見えた些細な出来事の一つ一つは、「死」という結果から遡って意味づけをしているだけなのかもしれない。でも、もし全然気にも留まらないようなことだったら覚えていないと思うんですよね。死の前に「飛び方が変」な時間があったこと、それがなんだかたまらない気持ちになりました。私はそんな風に生き物を丹念に見つめたことはあっただろうか、と思わされてしまった。
心だけ数か月後へ駆けていく奇蹟などない道をたどって (yuifall)