「一首鑑賞」の注意書きです。
111.それはもう判このようなさびしさを紙きれの上に押してもろうた
(山崎方代)
砂子屋書房「一首鑑賞」で石川美南が紹介していた歌です。
どうしてか分からないのですが心惹かれました。
歌の読みについてはほとんど鑑賞文にあって、付け加えることがあんまりないですね…。ただ、作者が山崎方代ということもあって「判このようなさびしさ」も現実の「判こ」ではなく抽象的なイメージだったのですが、もっと現実に落とし込んで読むこともできるのかなぁとふと思いました。例えば親の死とか介護とかそういう手続きをしていて、役所とか病院でもらえる定型的な書類に見てしまうさびしさ、のようなもの。
「判こ」だからある程度形が決まっていて公の場で使用できるもので、それを「押してもらう」んだからやっぱり他者の介在があって、役場とかそういうところでもらう定型的な「さびしさ」なのかなって。「判こ」を押されたことでその「さびしさ」は動かしがたく可視化されるのですが、だけどそれはただ目に見える形になってしまったというだけで、もし「判こ」が押されなかったとしても事実としては変わらなかっただろう、という一種の諦念のようなものも感じられます。
その「紙きれ」をどうするんだろうな。書類棚に入れて大事にしまっておくのか、燃やしたり捨てたりしてしまうのか、どこかへ提出するのか。
なんとなくですけど、そのまましまい込んでおいて、取り出すこともないし必要でもないのにずっと置いておいて、死後に黄ばんだ「紙きれ」がたくさんでてきて誰かが整理せざるを得ないような状況をイメージしました。誰しもそういう「紙きれ」って持っているのでは。
コピペして手直しすれば一通の不幸の手紙 あなたにあげる (yuifall)