山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
高木佳子
子のあるを昏(くら)き芯とし笑むわれは母とふ言葉に唇を噛む
母であるということをアイデンティティの核としたくないと思う一方で、「母」でいるという自我に救われている面もあるという心情なのではないかと想像します。子供を産んだ瞬間どうしようもなく「母」として規定されていく存在である自分を
星座図の星省かれてわれもまた見逃されゆく星のひとつか
三輪車つめたく錆びて置かれをり子に叛かれし老母のごとく
叛かるる日を予感する酷薄の母が唄ひし子守歌聞け
と詠う一方で、「叛かるる日を予感する酷薄の母」という自画像からは、酷薄というよりも、子供と離れたところに自我がある自分、という意思を感じました。「母」でいるだけではないことに意思と誇りを持ちながらも罪悪感も覚えているというような。
陽の中へ疾駆せよ五月 少年を待ち受くるものあまた光れる
という歌からは、この当時(2011年より前)にはお子さんはまだ小さい男の子だったのかなと思います。まだ社会と交わったことのない子供だけが持つ絶対の輝きが感じられます。そして
わが展翅(てんし)を解かむがために結ひあげし髪を留めたるピンを引き抜く
この歌は子供と遊ぶとき、あるいは世話をするときにまとめていた髪を解いて一人の人間に戻る瞬間なのかなって。
この人は『桜前線開架宣言』でも紹介されていて、2015年の本ですけど、お子さんは小学生のようでした。だから今はもう高校生とか大学生くらいなのかな?きっと少年も傷を知りながら大人になっていく年頃で、きっと幼いころよりももっともっと母とは遠く羽ばたく存在になっているのだろう。解説には
「片翅の蝶」は出産から子供の成長にかけてが描かれており、分類としては育児詠をメインとする歌集である。しかし生活感がまるでない。「たった一人のわが子」として描かれているというよりは、余計な荷物をまだ背負わずに未来への希望を抱えた眩しい存在として一般化されている。そして子供を抱えることによって、母は自由に飛翔できなくなることを感じている。子はいつか母に叛くものであるという諦念もある。これは即ち自らの母との関係がまた繰り返されていることの予感なのだろう。
とありましたが、「自らの母との関係が繰り返される予感」というよりは、「母」と「少年」の距離感なんだと思いました。いつかこの子は私を置いて遠くへ飛び去っていくだろう、という、それは予感というよりもほとんど現実の幻視に等しい感覚で、「自分と母親との関係」とはまた違っているような気がします。男女の違いもあるだろうし、時代の違いもあるのかもしれない。
をのこ児は助走はじめき 目の前の小川と母をいま越えむとし
飛んでいく「少年」と老いていく「母」として自分と子供の距離感を詠っているように感じます。
あの鳥を何と呼ぼうか 少年の痛みは負へぬ我と思ひき (yuifall)