山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
多田智満子
秋の水まなこにうつるうつし世をうつつとみつつゆめふかきかも
ひびきあふ花のいのちに蔽はれて柩の死者はめざめ居らむか
詩人として有名な方だそうで、歌人としては、没後に歌集が一冊出ているのみであるとか。短歌を作ってはいても自分を歌人だと意識したことはなかったのでは、と評されています。
読んでいて、なんとなく江戸時代の怪談みたいな雰囲気を受ける歌(まだ夜が闇だった頃の、死が身近だった頃のイメージ)が多いなぁと思っていたのですが、葛原妙子と山中智恵子の影響を受けているそうです。だから幻想的なのか…。解説には
生と死、現実と幻、そういった対比構造が歌の中に貫かれている。多田が見ているものはつねに「境界」である。ゆめとうつつのあわいを見続け、己の人生のちっぽけさを見据える。
とあります。「境界」を意識するのはやっぱりそこに「死」があるからで、この人は病身だったようです。
六連発ピストルのなか輪になりて六つの夢のあやふく眠る
これ、なんかオムニバス形式の小説みたいだなー。一発撃つごとに一つのストーリーが展開されて、でも全部夢で、結局ピストルを手にしてる自分に戻ってしまう、みたいな。個人的には、選ぶ分岐によって劇的に人生が変わる展開よりも、どの道を選んでも似たような未来に辿りついてしまうストーリーが好きです。森見登美彦の『四畳半神話大系』とか好きだった(笑)。しかしながら私がこの歌から連想したストーリーは、ディケンズのクリスマス・キャロルでした。
さまざまのふしぎがふしぎでなくなりて不思議の国は滅びに向かふ
最終的には闇は失われ、世界の全てに光が射すようになってしまって不思議の国は失われるのですね。病身であり、幻想的な歌を詠んでいたというところから考えると、不思議の国が滅んでしまったらもうこの世に自分の居場所はない、と訴えているようでちょっと切なくなりました。
そういえば
永遠の石鹸一個きらめきて小暗き湯殿に坐す聖家族
という歌から、東直子の
永遠に忘れてしまう一日にレモン石鹸泡立てている
を連想しました。東直子の歌は本歌取りなのでしょうか?それとも、永遠&石鹸ってよくあるモチーフなのでしょうか?石鹸ってむしろ儚いイメージがあるものですが、だからこそ永遠を見るのだろうか。本歌取りと言えば
水仙は水仙とよりそふて立つ天地(あめつち)にたつた二人の少年の如く
という歌が紹介されており、解説に
明らかに葛原妙子の「少年は少年とねむるうす青き水仙の葉のごとくならびて」という歌を意識している。
と書かれていました。水仙といえばナルキッソスですから、やはり美少年のことなんでしょうね。
航ひ紐解かむとする老ひた手よみづに抱かるる昏き川岸 (yuifall)