山田航 「現代歌人ファイル」 感想の注意書きです。
大野道夫
学生が踏む銀杏にむせ返る青春期(アドレッセンス)をやや過ぎたれど
この人は東京大学文学部卒業、同大学院教育学研究科博士課程修了、とのことだったので、もしかしてこれは「青春期」をやや過ぎた大学院生時代に大学で詠んだ歌なのかな、と思いました。20代でもう70年代半ばなので、解説の言うように、全共闘時代は終わってからのキャンパスライフですね。このくらいの時代感ってイメージしづらいなぁ…。「しらけ世代」だそうですが…。
いつか我ら捕える思想来るだろうそれまで午後の陽を浴びてれば
この頃ってまだ若者はそう信じていたんだろうか。何らかの思想的背景を持って若者が戦った時代を経て、その焼け跡を生きながら、「いつか我ら捕える思想来る」って。私自身は「いつか我ら捕える思想来る」って感じたことはかつて一度もなく、時代の感覚の違いを感じます。でも同じように「もうボクたちにシソウは来ない」という歌も引用されていて、「思想」という概念に見た夢のようなものが切なかった。
冒頭からずっと「時代」に関する歌が紹介されてきたのですが、最後に相聞歌?がいくつか引用されています。しかし、なんつーかどれもこう、共感しづらい歌です。解説には「相聞歌もどこかクールで何かを諦めてきたような顔が見えてくる」とあるのですが、
尻取りの最後はニンシンで終わる恋愛ゲームのめぐる十代
をはじめとして、引用された歌「君が子どもを生みにゆく夜」も「男女とは一対にして」も「制服の前はだかれて」も「女とはたとえば沼地」もなんか気に障る。理由はちょっとよく説明できないのですが、生理的な嫌悪感に近いものがあります。色々自分の内面を見つめて考えてみると、「僕と君」ではなくて「男と女」にしようとしてるとこが嫌なのかなって気がするのですが確信は持てません。あとは「ニンシン」とか「子どもを生みにゆく」とか他人事で軽い感じがするところも好きじゃないなって思った。女性に対して「お前が勝手にしたんだろ」みたいな印象を受けるというか…。まあこれは個人の感覚というよりも、当時の社会感を反映した言葉遣いなのかもしれません。
その中で
吾と君のなに溶けあうか知らねども吐く息まじる深夜の公園
は好きだなって思って、これはもしかしたら「吾と君」の歌だからなのかなぁ。私は「僕と君」を「男と女」にするまあいわゆる(学術的?)一般化が嫌だなと思ったのですが、解説には
群衆をとらえてうまく切り取ってみせる社会学者としての視線が十二分に短歌へと生かされていて、見事の一言に尽きる。
とあるので、学者としての目線を読み取るべきなのか、それとも男性の目で読むと違う視点が見えてくるのか、歌集全体を読むと印象が変わるのか、私の読み方がウザいだけなのかはよく分かりません…。もっと知れば好きになるのかもしれないとは思いますが。
モニターに少女ら交わすくちづけの甘さが資本主義の最果て (yuifall)